榊真一郎のトレンドピックアップ:仰々しさも美徳の一つ
英国といえば紅茶で、紅茶といえば英国。
日本といえばすし、というのとは次元違いといっていいほど、英国といえば紅茶で、まあそれは生活の仕方そのものと言い換えることすらできるかもしれない、相当に大昔から…。
紅茶というものが表現している「英国的」とは何かといえばそれは、無駄を楽しむとか、余分を楽しむとか、手順を楽しむとかってことになるのかな。たかが「何かの合間」でしかないお茶に、温めたポットやら沸騰寸前のお茶やら、仰々しいったらありゃしない。だけど、世界でも有数に勤勉な国の人たちが我を忘れて働く自分たちへの「ご褒美」とは、そうした手順を大切に踏まえたものであるべき、というのが今でも脈打っているのでしょう(その点は、日本の茶道に似ているのかもしれない)。
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まあ英国の人、みんながいつでもどこでも「スプーン一杯余分はポットのために」って紅茶の飲み方にこだわっているかというと、結構ティーバッグをジャバジャバやってたりするのですが、でも英国といえば紅茶であることに変わりない。多分、これからも。ではあるのですが、ロンドンの街角を歩くと最近、相当の確率でコーヒー専門店に出くわす。それも、どれもこれもが丁度スターバックスのような感じで、紳士も歩けばエスプレッソバーに当たる、てな様相を呈している。
それは何故? セルフサービスというサービス形態にふさわしい食という見方で、その二つの飲料を眺めてみるならば、答えの端緒はすぐそこにあるかな? 考えてみればお茶という代物ほど、セルフサービスに適さぬ飲み物を私は知らない。それはやはりうやうやしく供されるべきものであって、手っ取り早く何かを口に運び、フーッと溜め息をのど奥から絞り出すために使われる飲み物には役不足。エスプレッソとは逆にそうした飲料で、飲み干した後の余韻を味わうたぐいの存在、とでもいえばいいかな?
そもそも英国とは、エレガントとクール(伝統と先端)の狭間を楽しむ、狡猾(こうかつ)にして大胆な人々の住むところで、たまさか今、紅茶とコーヒーという形でエレガンスが新しいムーブメントの挑戦を受けている時、という見方ができる。
スマートというキーワード。これかなり便利。大世紀末のどさくさの中、人々が右往左往する中で「賢く自分を操れる」ということはこの上もなくクール(カッコイイ)ですね、確かに。時間を賢く使うための工夫。限られた予算を賢く使うための工夫。蓄えた知識を有効に使うための工夫。
賢くあるための工夫はそれこそ山のようにあって、それを一つ一つ発見し、発見し続け、実践し続ける。そんな楽しみにおぼれているのが、今の時代の雰囲気じゃないかな。これ結構シビアな視点。
実は工夫にはいつも「そこはかとない貧乏臭さ」が付きまとう。一昔前の省エネルック、今でも民主党の羽田さん辺りが思い出したように着てらっしゃいますけど、そんな「小ざかしさが気恥ずかしい」ものと紙一重。街角でエスプレッソをさっそうとあおりながら、小首をかしげ、でもどこかしらやるせない気持ちが小首をもたげ、ひととき、懐かしさに浸るはず。いつか、だれかが、どこかで、フト…。
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つまりある傾向の裏側には必ずその対極が潜んでいて、実はそれこそが次の時代の本流であることが極めて多い。これ歴史の定石。頭が考えるスマートの反対には何がある? ってことを冷静に見つめる、これ大切。「スマート」の挑戦を受けている「アレ」ですな。
アレってドレ? って、ばかばかしいほどの無駄であったり、ばかばかしいほどに大仰であったり、という数限りないばかばかしさ。心当たりありますでしょ? ありすぎてどうすればいいか分からないほどばかばかしい私の人生。ならば、例えば私たちの周りの「セルフサービスを受け入れぬもの」に目を向ける。この辺りを手はじめに、次の時代の本流に探りを入れる。決して悪いことじゃないとは思いませんか?
ところで、ここでお茶でも一杯、いかがでしょうか?
((株)OGMコンサルティング常務取締役)