トップ対談:八百八町・石井誠二氏とワタミフードサービス・渡邊美樹氏(前編)

2001.03.05 223号 6面

かつて居酒屋ブームの火付け役として一世を風びしたつぼ八の創業者である石井誠二氏(現・(株)八百八町社長)と、「居食屋」という新しいコンセプトを居酒屋業界に持ち込み、現在業界のけん引役として波に乗るワタミフードサービス(株)の社長、渡邉美樹氏。

この二人の出会いは一七年前、外食産業の社長を目指す渡邉氏が、つぼ八の店舗に感動したことから始まった。以来ふたりの関係は、師弟でもあり、同じ居酒屋という土俵で夢を語り合うライバルでもある。

二一世紀、石井氏は八百八町のチェーン展開と二〇〇四年の店頭公開を目指して新たな戦闘を開始した。一方、ワタミは昨年一部上場を果たし、「和民」の全国展開、「和み亭」「T・G・Iフライデーズ」「カーラジェンテ」など新業態の展開と出店に磨きをかける。元祖居酒屋ベンチャーと新興ベンチャー。二一世紀はこのふたりが真っ向からぶつかる。「対談は初めて」というふたりに、これまでの関係と今後の展望を語ってもらった。

‐‐二人は「つぼ八」の時代に知り合った。そのきっかけをお話下さい。

渡邉 僕は大学卒業後、二四歳で外食産業の経営者になると決めて、高校時代の親友二人を引き連れて会社を興すつもりでいました。宅配便配達で資金をためましたが、料理のノウハウがないので、相棒の黒澤君にどこかの飲食店で料理を勉強してもらうことにした。

当時、石井社長のつぼ八が東京に進出中で、大評判の新宿三丁目店を見に行きました。すると入った瞬間雷のようなお客様のにぎわいが聞こえてきましてね。「ここで勉強させてもらおう」と一致して、黒澤に立教大卒業と同時につぼ八に入社してもらった。一年後、僕が物件を探して「いよいよやるぞ」となり、黒澤が石井社長に「退社します」と言った。これが出会いの始まりです。

石井 彼は六大学の新卒として初めての社員だった。当時、リクルートの求人広告に五〇〇〇万円ぐらい払っていました。五人採用したので一人一〇〇〇万円。それが逃げていくので、えらいこっちゃと。退社の理由を聞くと「高校時代の仲間と会社をつくる」と言う。それなら、その仲間の顔を見たいから連れてこいと言ったんです。

‐‐第一印象はどうでした。

石井 礼儀正しい好青年という感じだった。

渡邉 怖そうな人だなと。その時とんかつを食べに行ったんですが、足がものすごく早い。本社ビルを出たらもう姿が見えない(笑)。食事しながら事業計画を話すと「そんなのは失敗する。つぼ八でもっとちゃんと勉強しろ」と言われましてね。高円寺と立川の直営店のどちらかを譲るのでやってみないかと。

石井 僕は若者の外食業界入りを歓迎していた。ならば、我流で目に見える失敗よりも、つぼ八で修業してからチャレンジしなさいと提案した。彼はギラギラした目で目をそらさずにじーっと僕の話を聞いていた。

渡邉 もちろん最初は乗り気でなかったですよ。でも石井社長が五〇〇〇万円の融資先を紹介してくださると言うので、これはどえらいことだと、一変に気持ちが変わりました。五〇〇〇万円の借入がどれほど大変か分かっていましたから、飛び上がるような思いでした。

僕にとって石井社長との出会いは、何ものにも代え難いものです。当時僕が計画した店では間違いなく失敗して宅配便屋に逆戻りしていたでしょう。

‐‐つぼ八での経験はどうでしたか。

渡邉 マニュアルからメニューづくりひとつとっても、全部がノウハウで、フランチャイズはそれを売っているわけです。でもそれが機能していないフランチャイズが多い中、当時のつぼ八はジーに与えるものをいっぱい持っていた。それを全部学ばせてもらいました。

つぼ八には「元気なつぼ八」など六つの約束ごとがあって、僕はいまでも全部言えます。自分でもいろんな戦略やマニュアルを考えましたが、結局ここに行き着いてしまう(笑)。簡単明瞭にこれだけのことを表現できる人はいない。それに気がついたのはオーナーになって三ヵ月目ぐらいでした。

迷わずこの六つを追求したら、売上げがガバガバ上がって、あっという間に二号店を出店。坪売上げは、つぼ八の中でいつも一位でした。返済も割賦以外の二〇〇〇万円については、一年ぐらいであっという間に返しました。

石井 半年たったころ「この人はもう完全につぼ八を超えたな」と思ったね。

当時FCを一〇〇店舗ぐらい出店していたが、中にはダメになる店もあった。それら全部を本部が買い取るわけにはいかない。代わりに買ってくれそうな人に引き合わすということで、美樹さんを紹介していた。彼にとってみれば一億円かけた店が数千万円で手に入る。そして彼がちゃんと元通りにしてしまう。すごい手腕だったね。

渡邉 おかげで一三店舗のオーナーになりました。でも一方で自分のブランドを作り、一〇年で上場するという夢を持っていたので、お好み焼きの店を立ち上げました。そのころ岐阜の郊外につぼ八の超繁盛店があって、そこは飲み屋の雰囲気ではなく、食事を含めて幅広い客層にくつろぎの空間を提供していました。「なるほど。自分がお好み焼きで店頭公開したらこのマーケットで勝負しよう」と思いましてね。

そんな時、つぼ八から離れていた石井社長が「八百八町」というニューコンセプトの居酒屋を開いたといううわさを聞いて、早速見にいったら、まさに私のイメージした「アフターファイブで地域に密着した家族が使える居酒屋」がそこにありました。石井社長は天才だと思いましたね。

経営者というのは、一つの発明しかできないというのが通説です。石井社長はつぼ八という大発明をしていながら、八百八町という全く違った店をつくった。コンセプターとして石井社長の右に出るものはいないというのはそこなんです。

石井 赤面しちゃう(笑)。八百八町は、つぼ八にホテルにあるようなバーを持ち込んだだけです。バーでは、目の前に世界中のお酒があって、そのラベルを見て想像するのが楽しい。ただなぜバーかというと、これからは仲間や親戚が集まって地域でパーティーが行われると思った。でも日本の住宅事情では家庭ではやりにくい。家庭では茶だんすにお酒がありますね。その代わりがバーです。地域の茶の間代わりをわれわれが務めさせてもらう。

つぼ八時代は、お客さんが会社の帰りにまっすぐ飲み屋にやってきた。今後これが崩れると思いました。退社後も会社の人間といて何が楽しいのか。それでいいのか、いや絶対変わるだろう。その考えの延長線上が地域社会なんです。最初の一年ぐらいは大した売上げはなかった。二八坪で一一五〇万円。毎月同じ。美樹さんは何を感動しているのかと思った。(笑)

渡邉 つぼ八は冷凍食品がベースです。八百八町はそれを否定して、全部手作りだった。また、チェーンの原則はアイテムを絞って生産性を上げること。ところが八百八町はアイテムが一五〇を超えていた。まさに既存チェーンに対抗する新興チェーンの原則がすべてちりばめられていました。

当時はまだつぼ八のオーナーでしたが、この店が隣に出てきたら、一二〇%負けると思った。

それと石井社長がまな板の前で左手に包丁を持ってお客さまをにらみつけていた。あの姿に感激しましたね。

‐‐「和民」を出したのはいつですか。

渡邉 平成3年で、石井社長が八百八町を出して三年後ぐらいです。つぼ八の一三店はそのままで、和民を郊外に持っていこうとしたんですが、本部から、競合するから一年以内につぼ八の看板を下ろせと圧力がかかった。そこで毎月一店舗ずつ和民に変えていきましたが、つぼ八で毎月三〇〇万円の利益を出していたものが、毎月三〇〇万円の赤字の店に変わっていく。利益が出なくて苦しみました。

僕は冷凍食品を扱ったら天下一品でした。食材ロスはゼロに近かった。ところが生鮮食品の在庫管理や発注の技術がない。仕込みを全部やるようにしたら時間が統制できなくなって、人件費も膨らんだ。

つぼ八から看板を変えても売上げは変わらず、お客さまの支持を実感しました。でも、経費統制が不十分で、毎月六〇〇万円も資金繰りが狂うというのは大変なことでした。

たまりかねて石井社長に相談しました。すると「じゃ俺の店に社員を送り込め」と言われて。ほとんど全員が行きました。僕にとって「この看板を下ろさなければいけない」という危機が、じつは大変な飛躍になりましたね。

石井 店頭公開するにはジーではだめだ。ザーになるには業態を持たなければならないので、そのお手伝いをしただけです。

つぼ八も八百八町もやっていることはそれほど変わらない。美樹さんはお客さんに居心地のよい空間を提供するサービスの部分では、つぼ八本部より良い資質を持っていた。あと必要なのは、冷凍食品ではない手作りのものを提供すること。八百八町の場合、毎朝仕入れをして、それを店で作って全部売り切って、冷蔵庫を空にして帰る。その現場を実際に見てもらいました。

‐‐それぞれに新しい業態を開発されてきて、二一世紀の居酒屋業界の展望をどのように見ますか。

石井 居酒屋というのは、ただ酒を飲む場所ではなく、皆が集まって一日の出来事を話せる場所であり飯も食べられる空間です。そういう場所は世界中どこにでもあります。大衆食堂と大衆酒場は同じだと僕は理解しています。これはどの時代も共通で大衆がある限り永遠と続くものです。僕はつぼ八のときにそれに気がついたから、「大衆永久栄」という言葉を皆に言っていた。どこまでいってもこの言葉通りだというのが僕の居酒屋の未来像です。

渡邉 ファミレスの一兆円と居酒屋の六〇〇〇億円のマーケットが確実にひとつになりつつあると実感しています。いままであれだけチェーンストア理論を追求してきたファミレスが手作りにこだわりはじめたのは、まさにわれわれを意識したからに違いありません。僕はマーケットが一兆六〇〇〇億円に広がるなら、これを奪取しようと考えています。

そしてマーケットは、文化が進んでいくとともに細分化していく。どんなお金持ちであっても、軽く食べたい時はコンビニ弁当を食べ、夜は高級レストランで食事をする。一兆六〇〇〇億円のマーケットは、居酒屋でもイタリアン、中華と細かく分かれ、それがまた単価別ごとに分かれる。業種業態が細分化し、それぞれのマスの中で一社しか勝ち残らない時代になるでしょう。マーケットの細分化と同時に競争は激化する。同時に必ず一社強いところが残るということです。

(次号につづく。次回は「従業員教育とはどうあるべきか」「高齢少子化社会での労働力の確保」「リサイクル法施行前の環境問題」など、業界の今後の課題について意見を交わします)

◆つぼ八創業者・八百八町社長 石井誠二氏

いしい・せいじ=昭和17年東京都生まれ。気軽に入れる居酒屋のカジュアル化をテーマに、昭和47年「つぼ八」を札幌に出店。居酒屋チェーンブームの先駆者となる。四〇〇店舗出店後、社長職を退き、次世代ニーズに向けて地域密着居酒屋「八百八町」を出店。“元祖居酒屋”として業態の未来像模索に大きく貢献している。

◆(株)八百八町(東京都大田区東矢向二‐一一‐一〇、03・3757・0800)地域コミュニケーションを掲げて居酒屋「八百八町」、炭火焼き「かたりべ」を大田区内に計九店舗展開。近隣住民から圧倒的支持を得ている。現在はやりの住宅立地型居酒屋の草分け。

◆ワタミフードサービス社長 渡邊美樹氏

わたなべ・みき=昭和34年神奈川県生まれ。明治大学商学部卒業。経営者になることを決心し佐川急便で資金をため、つぼ八のFCオーナーを皮切りに事業を拡大。外食新時代の旗手として業界をけん引するほか、他社と共同出資でJRM(株)を設立し環境リサイクル事業にも取り組むなど、理想実現のために積極的に取り組む。

◆ワタミフードサービス(株)(東京都大田区西蒲田七‐四五‐六、03・5703・2255)居食屋「和民」一六六店舗を軸にカジュアルレストラン「T・G・Iフライデーズ」、イタリアン居食屋「カーラジェンテ」など多角的外食事業を展開。年商二四二億

円(平成11年度)。

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