シェフと60分:「源来酒家」オーナーシェフ・傳登華氏
「ここでの修業が一番つらかった」と述懐する。
街場の大きなレストラン、ホテルのレストランで働いてきたという自負があった。ところが、家庭料理を身上に小さいながら一人で店を動かしてきた父親にあうと、すべてをぐらぐらと突き崩されるのが常。
「モト」は使うな、味の付け方も塩気が強いとしかられる。
「お前の料理はその場で食べればおいしい。ただしスープを最後の一滴まで飲み干したら、その日の夜はのどが渇く、それを考えろ」と。
店は三八席くらい。父親は常に客の顔色を見、少しでも顔色が悪いとやさしい味付けにしたり、料理のタイミングも酒が目的か料理が中心かなど細かく気を遣っていた。
そのためメニューも決まっているのはごく少量、ほとんどがその場に応じたメニューだった。
「店をもった今になって、初めて理解できるようになりました」
修業時代のホテル調理場は、ただひたすらに調理をする場。客席の客とは切り離されていた。
また客の来店頻度も月一回の記念日に利用するくらい。
ところが、父親のもとを離れ自らの店を出す段になり、頭にあったのが家庭料理の延長にある中国料理。一週間二~三回利用しても飽きのこない料理。和洋折衷もいとわず、懐石風にポーションを少なくし提供している。
日本人以上に中国人との付き合いが多い。
「恵まれた立場にいるので、店を媒体に日本と中国の橋渡しをしたい」という。
厨房で働くのは、浙江省から招いた中国人厨師。そのため自身と味覚の調整を徹底して行い、両者の妥協点を見い出す。
中国では特級厨房の料理人ではあるが、食文化が違う。まず一緒に汗水流して作り、食べながら日本の味を学習させる法をとる。
たとえば豚の角煮に使う八角の量。大量に使う中国人と違い、香辛料に敏感な日本人には一かけで十分。こうした味覚の違いをお互いが確認し合う。
「結果はお客のおいしいという言葉です」
豊富に出回る食材に追いつくため、利用するのがデパートの地下。朝から晩まで現場に張り付かねばならない身分だが、時間を作っては出掛ける。
「ノートにメモをする変なおじさんと見られているかもしれませんね」と苦笑い。
好きな食材は魚。この季節(8月)はぶつ切りにしたサンマを揚げ、ネギであえてサンショウを振った中華風サンマの塩焼き。ソースは、塩、粒サンショウ、酒とネギの香りを生かしたもの。
いち早く提供し、新鮮さを訴求した自慢の一品だ。 中国では青魚はあまり使わないが、このメニューは厨房スタッフ全員一致でOKとなった。
「たまに押し切ることもあるが、作り手が納得しなければ料理をしても面白くない。彼らがおいしくないといったものは控える」方針をとっている。
神田・神保町界わいは出版関係者が多い土地柄。夜遅く食べて、また働く人種が活動する自由なエリア。この環境に合わせ「料理も思い切ってチャレンジできる」と前向きに楽しむ。
「つい行き過ぎて三〇〇〇円コースで食材比率五〇%になることも。コスト管理では経営者失格かもしれない。でも三〇〇〇円だからこんなものというより、三〇〇〇円でこんなにという感動を与えたい」
オープンして四年目。父から受け継いだものに傅登華流新しい経営感覚を打ち出しているが、今後、「宴会で、中華にはないお客の目前で料理を作るパフォーマンスもやりたい、すべてのお客が見渡せるワンフロアの店もやりたい」と夢は尽きることがない。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
●私の愛用食材 鮮味鶏粉
料理系統、調理法を選ばず、どんな料理にも使えると評判の「チキンパウダー」を知ったのは一年前。「鶏本来のうまみがあり、しかもパウダー状のため、とても使いやすい」と、お気に入り調味料の一つに加えている。
鶏肉、鶏油、チキンエキスを独自のブレンドで、鶏本来の持ち味にこだわり仕上げたというチキンパウダー。
「ほんの少量でしっかりとした風味づけができる」利点を生かし、主に上湯スープのコクだしに、またギョウザ、シュウマイ、肉まんなど点心類の練り込みに使うことが多い。
このほか炒め物などに少量入れることで味が決まる万能調味料でもある。
▽問い合わせ先=(株)大榮貿易公司(東京都千代田区、03・3234・5401)
◆プロフィル
一九六一年東京・神田神保町生まれ。小学校は中華学校、中学から日本の学校に進み、父のすすめで立教大学へ。家業は中国料理「源来軒」だったことから子供心にも進路は料理界と決めていた。大学卒業後、飯倉「中国飯店別館」で修業に入る。中国人スタッフの中、ただ一人、日本人という環境ではあったが、広東語を勉強しながら三年間、料理修業に励む。日本人シェフについて学びたく六本木「瀬里奈」へ。ここで二年間、「妥協を許さない精神」をたたき込まれる。すでに結婚し子供をもうけていたが、要請がありホテルニューオータニ大阪「大観苑」に。二年間朱シェフの薫陶を受けるが、母親の病気のため帰京。父親の経営する「源来軒」に入り、もっとも厳しい師・父親のもとで修業を積む。一九九四年、三八歳で独立し中国料理「源来酒家」を開店、現在に至る。
・所在地/東京都千代田区神田神保町三‐三
・電話/03・3263・0331