シェフと60分 銀座・天國和食部料理長・奥谷滋一氏 会席料理の集大成に夢
「会席料理は“先き付け”が勝負、これに全力を投入します。それから材料の組み合わせと手順に神経を使う。“先き付け”が喜ばれても、次の一品で『何だこれ!』と言われたらすべてがパーになってしまう」。一流料理人の覚悟と自負がある。
季節感にも敏感でなければならない。
「夏なら、たとえば鰻。開いた鰻を白コンブで巻いてうす口でゆっくり煮て、一口の大さに切って出す。料理のあとの食事では冷やし素麺、冬ならスッポン雑炊にしてみる」。お客に料理を堪能してもらおうという心くばりがまず基本にある。「味にはこだわるけれども、値段にはこだわらない」。奥谷さんの基本ポリシーである。
当然、材料にもこだわる。海で獲れるものは天然ものしか使わない。まがいものの養殖には一切手を出さない。しかし、侭にならないものもある。
「東京の鰻は一〇〇%養殖。だから鰻は“産地”で選ぶ。鮎も“半養殖”ばかり。天然ものも河岸にはあるけれど原価で一匹一三〇〇円もする。それを一品料理に仕上げたら、えらく高いものになってしまう。しかたないから“半養殖”の生きのいいところを夏場の一〇日間だけ使っている」。“旬”のこだわりである。
その鮎料理にも奥谷さんの気くばりが伝わる。「鮎の塩焼きをきれいに骨抜きにして食べられるお客さんが少なくなりました。それで、尾頭を落として骨抜きにして出しています」と笑う。
「銀座・天國」に入ったのは昭和59年。創業百年を期してビルに建て替え、会席料理を本格的にやることになり、腕を買われて招かれた。それまで一流の料亭、ホテルでたたき上げてきたから自信がある。メニューは奥谷さんのアイデアが活かされた。「大きな店で鍛えられてきたので、戸迷いはなかった。しかし、天國といえば天ぷら。どう頑張っても天ぷらの売上げの半分に及ばない。天ぷらに負けたくない、という大それた考えはなかったけれども、のれんを傷つけたくないからいい料理を作ろうと一生懸命だった」と振り返る。味付けにも注意を払った。「町名は銀座でもここは新橋。銀座と新橋とは客筋が違います。薄す味はダメ、はっきりとした味にするようにと下の料理人にたたき込ませました」。流石、目の付け所が違う。
「職人として一本立ちしてやろうという気骨のある若い料理人がいなくなった」と嘆く。奥谷さんが料理の世界に飛び込んだのは夜間中学を卒業した昭和28年、大阪で五年間料亭で奉公したあと、紹介状を手に夜行列車に乗って上京した。「両親と姉弟七人の家族の長男だったので、ひとりでも食い扶を減らさなければならない状態だったのです。奉公時代の手当ては一五〇〇円ぐらいでした。空腹を満たすのが精一杯で下着が買えなかったのです。ハングリーだったから一日でも早く親方に近づきたいと頑張ったものです」。その頑張りが通じて、築地の「河庄」への紹介状を手にすることができた。ハングリー時代の“原体験”があるから、若い料理人が歯がゆくなる。
「一流の料亭や寿し屋の息子さんが多い。“預り”の二代目だから将来が約束されているせいか、競争心がない」と。
不況風は銀座界隈にも吹きつける。一流のクラブ、料亭が店を畳んでいる。「このご時世、頭は痛い。しかし、材料を落とさず、値段も下げない。今はじっとガマンの時期」と叩き上げの職人気質をみせる。「これから、和食の世界は厳しくなるだろう。これまで甘くやってきたところは弾き飛ばされる」とサラリと言いのける。
夢は「天國の看板で銀座にこだわりの和食会席の店を出してもらうこと。一日二〇人くらいに限定したお客さんでもやっていけるような料理を作ってみたい。和食の究極は一日一組しかとらない懐石に行きつくけれども、これは夢のまた夢」。銀座に天國の和食会席の花を咲かせたいと願っている。
“生涯一料理人”を座右の銘とする奥谷さんの集大成を大いに期待したい。
昭和12年、和歌山県新宮市に七人姉弟の長男として生まれる。戦後の窮状下の28年に、食い扶を減らそうと自分から家を出て大阪・千年町の「若か葉」に奉公に入る。昭和32年、朝鮮動乱の時、夜汽車で上京、築地「河庄」につてを得て入る。
その後、勤勉さと料理の腕を買われて銀座「深川亭」、熱海「ガーデンホテル」、湯河原「石亭」、東京麹町「つた」、帝国ホテル「伊勢長」で修業を重ねる。
59年銀座「天國」が本格的に会席料理を始めると同時に縁あって招かれる。築地に住まい、毎朝、魚河岸に出かけて新鮮な素材を吟味する。
文 富田 怜次
カメラ 大塚 憲一