人物往来 全日本司厨士協会・藤咲信次会長 レストラン経営の確立

1992.05.18 4号 2面

《レストラン経営の確立 》 私がアメリカ軍施設を辞する一年ほ前、ホテルニューグランドにいた私の友人から、「日本橋に紅花というコーヒー店があり、レストランを開店したいので、私に是非来て欲しい」という勧めがあった。

紅花の規模は、二五坪ほどの敷地の上に二階建ての建物が建っており、一階は喫茶店、二階の方は半分が住まいで、ここに親子六人が住み、その半分のスペースをレストランにする、ということで、私が訪ねた時にほぼ出来上っていた。そして、一階の喫茶店では主にコーヒーを提供して大変繁盛していた。ともかく二人しか入れない狭い場所で、仕事をするようになった。

私は、戦前料理長をやっていた頃からレストランの経営についての見識はもっていたが、ここ紅花の経営者・青木さんは、芸能人(戦前、私が大変興味を引かれた日劇のステージダンサーで、かなり名の売れた方であったが、芸能界を退いて喫茶店を始めたばかりの方)で、全くレストランビジネスがわからない人だった。酒の強い人で、野菜などは好まず、「お客が喜ぶもので、肉でも魚でも大きい方がいい、付け合せなんか要らない」というので、私はレストラン経営のシステム、売値に掛ける材料費の比率などを懇切に説明してから仕事を始めた。

前述したように、調理場には二人しか入れない。冷蔵庫も丈の低い氷で冷やす冷蔵庫で、この上にマナ板を置き、切り出しから盛り付けまでやる。パン粉を付けるような作業もこの冷蔵庫の上でやり、ここで出来なければ流しに板を敷いてやる。ともかく狭いところだから、こういう状態で仕事をした。

しかし、私は七種類のメニューを作って毎日かえ、メニューは全部手書きした。

その当時は、わが国の牛の飼育は昔風な方法で飼っていた。従って、いまの牛肉と比較にならない味の良い肉があった。牛肉のみではなく、豚肉、鶏肉もそうだった。魚介類も同様に新鮮で良いものが多かった。

《 豊富な良質の食材 》 と同時に、当時は飲食店の数も少なかったので、需要と供給の関係で食材は品の良いものが比較的に安く入手出来た。従って、料理に素材の味を生かせた。

私は、料理に素材の味を生かすよう工夫し、あまり加工し過ぎないよう注意した。一例をあげると、伊勢えびは六〇〇~七〇〇㌘のものを一尾ランチに提供したり、鮑も一個丸々付けた。牛肉も五~七年飼育の和牛肉は柔かく味が良かったし、仔牛肉にしても上ッ子のスネなどイタリア料理には最適な肉で、ボリュームもあり、美味であった。

コンビーフにしても、現在のものとは比較にならないほど美味だった。私は、こういったメニューを日替りで組んで客に手頃な値段で提供した。これは、私の多年の料理人としての蓄積された知識と、アラスカ勤務時代の安くて新鮮な食材を提供した頃の成果でもあった。

お客はこの評判を聞いて集まり、ランチタイムには行列をなした。そこで11時頃開店し、午後3時頃まで店は客でいっぱいだった。また、ディナータイムは午後5時頃開店してほとんど満席だった。連日お客が来ては待っておられるので私も一生懸命料理を作って提供しなければならなかった。 (つづく)

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