シェフと60分:新世界グループ・オーナーシェフ 傳健興氏
中華料理の人気がいま急上昇、ブームのような勢いをみせている。中国酒もその波に乗って良質のものが種類も多く紹介されるようになったが、傅さんはその中国酒普及の仕掛け人であり、功労者。
「中華の世界にのめり込んだのは紹興酒のせい」というくらいだから半端じゃない。毎月中国に渡り、現地の杜氏とはすでに顔馴染みになっている。どの杜氏がどういう酒を作るか知り尽くしている。日本の商社や酒造メーカーの担当者との知識の差は雲泥。「瓶にもビンテージがあるのです。工場ごとにそれぞれ個性の違う紹興酒を作っているのですが、日本の業者はそのことをあまり言わない。そもそも、紹興まで足を運ばない業者が大半」と訝る。傳さんは毎年三工場から輸入し、埼玉県三郷市の倉庫に常時二〇〇〇本を貯蔵している。
中国の酒造元に生産委託した独自ブランド二品を揃えるほどのこだわりようだ。「紹興酒は世界で最も純粋で、しかも一番安い酒。モルト一〇〇%でまざり気がありません。当店の最高級品は一本わずか二六〇〇円で提供しています。人気があって百貨店、専門料理店にも卸しています」とPRする。しかし、その紹興酒も飲み方、楽しみ方はいろいろある。「料理に合わせて飲む紹興酒と、紹興酒だけを味わうタイプに大きく分けられるのです。当店では上澄みだけをとった、さっぱりとした紹興酒を中心に揃えて、料理にマッチさせています。料理を食べずに酒だけを楽しむには一〇年以上寝かせたものを何種類かブレンドして漉さずに、沈澱したのを掬って飲むのです」と紹興酒の楽しみ方を説く。
「商社や問屋は扱いやすく、利益になるものばかりを輸入したがる。しかし、中国にはもっと素晴らしい食材がたくさんある」。それを日本に輸入し、紹介するのも傳さんの仕事の一つと心得ている。グループ会社の「健興通商」にその機能を持たせている。「旬の新鮮な野菜、魚介類を輸入してタイムリーなおいしい料理に仕上げるのです。野菜は二週間ごとに旬の種類が変わりますから定番メニューは作りません」というほどのこだわりである。
「咸享酒店は道楽で開いた店。だから素材と酒にこだわるのです。日本に馴染みのない素材をどんどん使ってお客さんに紹介していきたいのです。そして、田舎料理らしさを失わないようにしたい」というのが抱負。注文があれば同業者、卸業者にも輸入食材を販売していく考えだ。すでに、上海ガニ、紹興酒でその実績を上げている。
こだわりは酒にとどまらない。今年6月にオープンさせた「咸享酒店新館」は中国の旬の野菜、魚介類をふんだんに使った上海の田舎料理を売り物にしている。
「新世界菜館は名前が売れ過ぎて高級化してしまい、かえって特色が出せなくなってしまいました。そこで、もう一度原点に還って、地方色のある故郷のよい田舎料理を提供したいと考えたのです」。
「咸享酒店」の由来は、上海の田舎、魯迅が生れ育った所に昔からあった一杯飲み屋の屋号から採った。おふくろの味がカンバン。
「中国の野菜は自然栽培で種類も豊富です。二週間おきに旬の種類が変わるほど野菜に恵まれているのです。その野菜を輸入して、田舎料理に仕上げたいのです」と目を輝かせる。食材さがしのために毎月中国にいくわけだが、日本の商社や問屋にはまかせられないという。
「日本の食材扱い業者は本場の本物の食材をさがす力がありません。商品知識のない商社マンがもってくる食材ばかりが流通して、われわれがほしがっている食材とずれが出てきているのです。シェフがどういう食材を欲しがっているか食材業者はわからなくなっている」と厳しく指摘する一方、「シェフにも問題がある」と提起する。
「最近はカットされた物や戻した食材が流通し、食材を見分ける目がなくなっている。しかも、戻し方を知らない若い料理人が多くなってきている」と嘆く。
道楽の店というだけあって備品も凝っている。ほとんどの調度品が中国産で、青鉄平石も天然石をほどこしている。カンバンの屋号は王義之の直弟子の書だ。
採算を度外視しているわけではない。五八席で月一〇〇〇万円の売上げベースを計画してスタートしたが、目下、それを上回る好調さ。
「常連のお客さんが新しいお客さんを連れて来て酒を自慢してくれます。それが当店の武器。中華はいま若い女性の支持を得て繁盛していますが、当店は“おじさん”たちが安心して飲み食いできる店にしたいのです」。
文 冨田怜次
カメラ 岡安秀一
傅健興(ふーけんこう)氏、昭和22年東京・神田に生まれる。東海大学工学部に入学し、建築デザイナーを目指したが、果たせずコンピュータの世界に転出。父親がラーメン店で苦労して働いていたのを見ていたので、料理人になるつもりはなかった。しかし、不況もあって、「料理の世界に入れば食いっぱぐれはない」と一念発起、東京銀座の揚子江菜館に入店、その後、銀座大飯店、赤坂山王飯店、自由ヶ丘南国飯店で修業を積む。49年新世界菜館の料理長に就任し、56年(株)新世界の社長に。料理だけでなく経営でも手腕を発揮、62年に新世界菜館別館、平成4年に咸享酒店、健興通商、5年新世界中国開発、上海咸興実業公司、咸享酒店別館、6年咸享酒店新館を相次いで設立、開店させる。
「まさか料理人になるとは思わなかったが、今は悔いはない」。油の乗った47歳である。