シェフと60分 「オテル・ドゥ・ミクニ」オーナーシェフ 三國清三氏
「日本人としてのフランス料理が、どれだけ通用するか試したかった」と、ニューヨークの最高級レストラン“ザ・キルテッド・ジラフ”、フランス“オテル・ドゥ・クリヨン”、ロンドンのホテル“ザ・バークレー”などでミクニフェスティバルを精力的に行っている。
また、「世界のアジアを代表するミクニを目指し」、タイや香港でもフェスティバルを開催し、これからは、ソウル、上海などもターゲットとしてあげる。
「二八歳の時、アラン・シャペルに出会い、フランス人でなければフランス料理は作れない。日本人としてできるフランス料理を作っていかなければ、一生、フランス料理の神髄には到達できない。これ以上フランスに滞在していても無駄」として、一〇年暮らしたヨーロッパを後に帰国する。
アラン・シャペルが言う「料理は生きているもの。作り手の人格、人生を表現するもので、レシピを超えるのが料理」の神髄に触れ、「自分は新米の炊きたてごはんや味噌汁をうまいと思う日本人。バター、チーズの発想で生まれたフランス料理を超えるには、やはり限界がある」と、自ら日本人であることを再認識する。
「フランス人が作るフランス料理と、日本人が作る料理は違って当然。気付くのに一〇年かかりました」と述懐する。
食材が豊富な今、かつて見ることもなかったフレッシュのフォアグラ、トリュフが手に入り、日常の素材として扱われている。こうした素材に、「料理の行き着く先は、技術を鍛練し、素材が発する電波をキャッチできる身体なり、姿勢をつくり、素材以上のものに作り上げることです」と料理人の姿勢を正す。
「技術は、死ぬまで追究するもの。続けないと錆びてしまう。しかし、素材の微妙な電波をキャッチできないのを、技術がカバーしてしまうのは、私の追究する料理ではない」と、毎日、現場に身を置き、生きものである素材に立ち向かう。
二五年間調理場に立ち、「つくづく思うのは、精神的、肉体的に大変なことです」とプロの厳しさを説く。
人並みに映画を観たり、ゴルフもしたい、会合にも参加したい、といったことを断ち切り、四〇、五〇代になっても調理に立ち向かうには、「悟りがないと続けていけない。自分との闘いです」としながら、自らの仕事を天職だと言い切る。
結婚七年目にして諦めていた子供を授かり、尊敬するジャン・トロワグロにあやかりジャンと命名。
「子供を持ち、初めて人を愛することから、自然にモノを愛しむ気持ちへと移行するのがわかった」といい、二年前にできた“世界の子どもにワクチンを”のボランティア活動に参加し、ギャラの半分は寄付をする条件でフェアを開催している。
「素材と対話できるのも、天の恵みであり、感謝の気持ちとして、素材を素材以上に表現した料理で提供する」のは、神への畏れからくる「自分への保険です」と笑う。
幼い頃は、魚やコメで支えられていた生活だった。ニシンと言えば増毛と言われていたのが、プッツリ途切れて来なくなった。原因は環境破壊によるものと、後でわかったが、「天然のもの、旬を大事にすることが、おいしさにつながり、それには、キチンとした環境が必要」と素材をはぐくむ環境には、厳しい目を向ける。
一〇〇%無農薬は、疑問としながら、人間の身体を考えない過度の農薬使用には反対し、実際に、全国の四〇~五〇軒の農家で結成された「おいしい本物を食べる会」から、食材の八〇%近くを仕入れている。
「仕入れが不安定なため大変ですが、お客においしく食べてもらい、素材の良さを知ってもらえば本望」と言い、直接、間接に農家をバックアップしている。
一九五四年、高倉健演ずる映画「駅」の舞台となった町である北海道増毛町生まれ。増毛町は、唯一半農半漁ができる最北端の町でもある。
料理に和・洋・中があることも知らなかった一五歳で札幌の調理師学校へ進み、札幌グランドホテルで修業を始める。
斉藤調理長の紹介状で帝国ホテル村上料理長を訪ねたのが一八歳。当時六五〇人いたコックの中から村上氏の推薦を受け、弱冠二〇歳で駐スイス大使館で四年勤務後、フランス料理の鬼才フレディ・ジラルデ氏に師事、トロワグロ、ロアジス、アラン・シャペルなどの三つ星レストランで修業の後帰国。一九八五年、東京・四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店、その後、世界有数のホテル、レストランで「ミクニフェスティバル」を開催したり、“世界の子どもにワクチンを”のボランティア活動にも参加している。
理想を経営という現実でどう表現するかは、大きな課題だ。
「何気ない顔で夢のような世界を演出し、お客がロマンを感じ、夢を託してわざわざ来る。観客になるか舞台に上がるかです。一生演じ続けるしかない。観客がいなくなったら、舞台を下りるしかないのです」と、理想と現実の間の深さを淡々と語る。
将来は、プロがプロを教育する学校を計画中だ。
まず精神を鍛え、それから和・洋・中の技術を習得しないと、技術だけでは伸びず、一〇年で基礎技術、一〇年で精神、計二〇年やれば、後は何があっても大丈夫という。
「私を信じない者は、何年いようが意味が無い。ただレシピを憶えたというのでは愚の骨頂。来る者は拒まず、去る者は追わずで教育している。学ぶ所は、カレー屋、ファストフードどこも同じです。欠落しているのは心。教育者に必要なのは、相手側に自然に信じさせるパワーです」と次代への教育に夢を託す。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一