いまフランスの新傾向とは何か キーワードはトラディッション

1995.02.06 69号 20面

二〇世紀も残り少ない今、西洋から吹く風が変わってきた。この半世紀、カタカナ文化の主流はアメリカだった。戦後の米国の歩みに合わせ、全国を制覇したハンバーガーと、コカコラリゼーションは、思考様式のアメリカナイズを進め、ヨーロッパ的な価値観や、行動規範については、思考回路が利かなくなった。先のイタメシ現象のような、欧州直行の食文化を、米国型の思考回路に入れては、市場導入に成功するわけがない。このような現実に、いま変化の兆しが見え始めた。

昨年11月「フランス料理界の近況」を主題に、服部学園(東京、理事長・服部幸應氏)で講演会が催された。講師はヴィクトル・フランコ氏(美食評論家)と、ジャン・ドラヴェーヌ氏(料理研究家)で、その講演は、低迷続くわが国の外食産業界に、大きな示唆を与えるものがあった。かねて服部氏は、フランス食文化の啓蒙を続けてきたが、今回も多大な意義があった。

フランス料理界の新傾向とは何か。端的に言えば「バック・トゥ・ザ・トラディッション」といえよう。かつて日本料理に学んだ、ヌーヴェル・キュイジーヌだが、いま伝統回帰の新傾向がうかがえる。ただ「回帰」といっても、単なるファッション・サイクルや伝統墨守へ向かうのではない。食の基本、料理の基礎を見極めた本来の価値を再発見しようとするものである。

〓「世界語」を共有

今後の動向を占う上で「フランス発の情報」に意味がある。その理由は、フランス語が料理の「世界語」だからである。食材の名前にしても、(肉を例にすれば)生体には年齢に応じた呼称があり、部位の名称も屠体、肉、料理と、利用の時点で変わる。調理のテクニカル・ターム、料理のスタイルの表現、料理のネーミング、メニュー構成、サービス・マナーに至るまで、世界の外食産業界で通用する「言語」は、定義の確立した、フランス語だけである。

ダラスでもケルンでも、レストランの英語やドイツ語の、メニューの意味が不明なら、テクニカル・タームで聞けば、切り方も焼き方もソースも分かる。オリンピックでも、柔道の競技用語は日本語のように、料理の共通語はフランス語であって、しかも概念と共に、思考も共有できるものである。フランスからの発信の意義は、世界の外食産業界へ呼びかける、強い影響力があるといえるのである。

〓スリム願望反省

では具体的に「バック・トゥ・ザ・トラディッション」とは、何を指しているのか。要旨のみ述べれば三点ある。(1)珍味佳肴の偏重から、優れた地域の素材を尊重する。(2)行き過ぎたスリム願望を反省し、価値あるパンやバターを尊重する。(3)肉や魚の本来性を認め、骨付きの素材を尊重することである。この「新傾向」に示す方向は、いずれもフランス料理の、歴史的特性を踏まえて理解すべきだろう。

なかでも日本の食生活の、現状に対する示唆がある。(1)の「地域の素材」の尊重とは、ひいては地方料理の尊重である。これが「伝統回帰」を意味しているのである。何故か。フランス料理といっても、日本ではその「概念」が、理解されているとは言いがたい。その「フランス料理」の定義を、キュルノンスキー(美食アカデミーを創設し、〈フランス・デ・ガストロノーム〉の、称号を贈られた美食評論家)の分類からみよう。

a〓オート・キュイジーヌ(超高級料理)、b〓キュイジーヌ・レジョナル(伝統的な地方料理)、c〓キュイジーヌ・ブルジョワーズ(市民階級の家庭料理)、d〓キュイジーヌ・アンプロンプテュ(田舎の日常的な料理)の四種がある。珍味佳肴の偏重から抜け出すのは、aの超高級料理からbの地方料理へと、方向転換を示唆するものである。

一般的に日本人のイメージは、この分類のaを指すだろう。だがキュルノンスキーは「これは大がかりな宴会用の、洗練された精妙な料理であり、才能がある料理長でなければ出来ない」が、「世界のホテルの中には、これを真似た贋物が供されている」と述べている。日本の職業グルメが、話の種にしているフランスの料理店とは、十数万店のうち一〇〇店しかなく、一般のフランス人も行かない、超高級料理店の料理である。

次に、(2)行き過ぎたスリム願望を反省し、価値あるパンやバターを尊重する、という点である。二〇世紀の始め、フランスでは一キログラムのパンを食べていた。日本の一升飯に匹敵する話だが、主食の穀類から蛋白質を摂取していたからである。日本の食堂では「ご飯のお代わり自由です」と掲示された店もあるが、フランスでは「パン」は食べ放題だから、懐の寂しい若い女性などは、「いま節食しているの」とサラダだけ注文して、パンはもりもり食べて帰るという例もある。

今は懐も温かくなって、逆に主食離れの現象が見られるが、本来の食事に戻って「穀食」ベースが、体に良いとされてきたようである。欧米の食パターンを「肉食」とし、わが日本の食パターンを「米食」とする、早とちりの学者がいるが、歴史を振り返るまでもなく、世界のどこであっても「穀食ベース」が、食生活の基本である。生産効率の最も悪い「肉」の供給は、余剰の飼料作物があって、初めて成り立つのだから、欧米といえども、好きなだけ肉が食べられるようになったのは、ごく最近のことである。

〓パンの質向上も

そのパンの「質の向上」が意識されだしたわけである。フランスでは「パンは焼いて二〇分が寿命」といわれるが、これも炊き立ての飯と同じことだろう。パリのパン屋は、一個売りしてはいけない(重量単位で売ること)など、厳しい規則があるが、中には「同じ街のパン屋が、一斉に休業してはいけない」というのもある。食べるたびに買いに行くパン屋を、一斉休業させないという配慮である。厳しい規則が生まれるには理由がある。その昔、粉屋とパン屋は、量目をごまかすことで、市民の不信をかっていた。いまはケーキであろうと、重量単位で売られている。

〓質と量吟味して

食べ過ぎこそ肥満の原因である。毎年、アメリカの専門誌に発表される、数千の新製品を見ると、いまも圧倒的にライト志向である。ファット・フリー、ソルトレスが「コンセプト」という粗末な状態である。アルコール飲料に限らず、塩、砂糖、脂肪の、いずれにも罪はない。肥満は食べ過ぎを止めればよい。

フランス料理において、「バター」は特に重要な地位にある。それがヌーヴェル・キュイジーヌで、低い地位に落とされたのは、これも食べ過ぎによる取り過ぎからで、本来、ソースや調味料やツナギとして、最も尊重されてきた食材である。名だたる総料理長の著作をみても、そこにはイジニィのバターを渇望する、最良のバターへの憧れがある。

日本のバターの地位は、パンに塗って食べるレベルだが、それは副食が少ない時の「食べ方」である。

ある企業の役員昼食会で、パテの試食をしたことがある。ワインも付けた本格的な構成だった。食事の最中に、ある役員が「パンに付けるバターが出てません」と言うので、「このパテには、たっぷりバターを使っています。バターを使った料理には、バターを出さないのです」と答えた。

余談だが、ミラノの友人に、市内の三ツ星のレストランの評判を聞いたところ「あんなのはイタリア料理ではない」と憤然としていた。後で行ってみると、明らかにヌーヴェル・キュイジーヌの影響を受けている。おまけにシェフの著作「ヌオヴァ・クチーナ」という本まであった。文字通りの「新料理」で、バターの使用は少ない。イタリアは地域性が強く、油脂の好みも「南部はオリーブ油、北部はバター」である。

第三は、(3)の肉や魚を「骨付きの素材」とする点である。これはブロックになった、魚や肉の部分買いから、魚は一匹単位、肉は枝肉単位で仕入れること。キッチンから失われつつある「技術」を復興することにある。

また喫食サイドのお客には、眠れる狩猟本能を呼び覚まし、野性の提供による「団らん」の復興を意味する。日本では、魚の年齢、部位の名称、分割の技術、内臓の利用に、細かな分類がある。フランスでは、これに匹敵する肉の分類がある。

もともと欧州の肉料理は、米国のステーキのような、肉の切り身だけを食べるものではない。一頭の動物、一羽の鳥の「すべてを食べ尽くす」のが原点である。最近もてはやされる「鹿」の例では、時期と地域によって種類がある。のろ鹿でも雄(セール)、雌(ビーシュ)の呼称があり、年齢に応じてファン、プロカール、シュヴレット、ダゲと呼び名が変わる。部位の名称や内臓の利用は省くが、伝統的に分割の技術が高く評価される。

日本にも好例がある。室町時代の光孝天皇は、即位後「庖丁式」を設計し、衛生思想の普及や材料の部位利用、メニュー・デザインの基礎を固めた。実務を担当した藤原政朝が四條流の創始者である。日本料理は割烹(割く・煮る)が基本だが、四條流「庖丁切形」には、鯉、鯛、まな鰹、すずき、鮒がある。鯉の部位は一七通り、切り方は三六通りある。肉食の素材は、鶴、雁、こうのとり、鴨、雉の名がある。

洋の東西を問わず、呼称が細分化され、テクニカル・タームが多いほど、技術水準の高さを証明する。昨年10月17日、日本食糧新聞社主催の、二一世紀経営者フォーラムで披露した「式庖丁」は、独特の技術伝承の様式である。いまなら標準化、マニュアル化を行い、ビジュアルなビデオでフォーラムが再現できる。これに先立つ式庖丁では、すべての要点を「緩慢と休止」の動作で示す。つまりビデオでいえば、スロー・モーションと、ストップ・モーションを交えて見せるのである。

〓捌きのエリート

さて、フランスの肉料理の基本は「煮込み」である。キュルノンスキーは「ポ・ト・フーこそフランスの国民的料理」と言っているが、特権階級においては、焼き肉(牛や羊の丸焼き)を指す。宮廷では、これを切り割く技術が尊ばれ、王侯の「肉切り係」となる貴族には、エキュイエ・トランシェという称号と、シンボルのエキュー(楯)が与えられた。中世の騎士にとって、カーヴィングは高貴で名誉な任務だった。六〇種ものナイフで、最高の儀礼を示す洗練された「捌きのテクニック」こそ、高貴な者だけに許された、教養だったからである。

かねて指摘してきた通り「いま料理は限りなく食品に近づき、食品は限りなく料理に近づいている」。従って、「食品は不特定多数を対象に、限定され量産された品であり、料理は特定少数を対象に、その希望に応じた品をその都度つくる」ものという、前言を合わせて撤回しなければならない。食品メーカーの持つ、原料調達、開発、設備のノウハウ、工程技術、マーケティング技術や、小売業のマーチャンダイジング技術が、外食産業に導入されている。これらのノウハウとテクニックを、いかに合理的に連結するかが、今年の大きな課題になるだろう。いまや縦と横の戦略同盟が、世界の先進国で展開されている。

フランスの「新傾向」を、個別メニューへの応用や、量産の規模に適合しない、と見るなら早計に過ぎよう。事実、珍味佳肴のイミテーションの利用や、安価な産地開発と指導など、多くの手段が講じられている。アジア諸国から、開発輸入された野菜や魚加工品が利用されている。日本のカッティング・マナーが、ショーアップされ、ベニハナ・オヴ・トウキョウが、アメリカで成功した先例もある。ここにも「視野の広さ」が、競争の領域を計る「条件」としてみえてくるだろう。

食品メーカー開発ノウハウでは、スケール・アップこそ、量産であれ、多品目少量生産であれ、いままでの蓄積されてきた技術である。差別化競争の根底には、マーケティング原理にある通り「変化は周縁から起こる小さな現象」に注目しなければならない。バック・トゥ・ザ・トラディッションこそ、フードシステム研究所が提唱する、食文化ベースのマーケティングに呼応するもので、二一世紀型経営に欠かせない視点である。

(フードシステム研究所所長・田中千博)

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