特集・デリバリーピザ トップインタビュー ジェーシー・フーズ大河原愛子社長
‐‐ピザといえば大河原愛子さん、大河原愛子さんといえばピザ。そんなイメージが定着しています。ピザとの出合いを聞かせて下さい。
大河原 出合いは米国の学生時代です。寮生活で食事もままならぬほど勉強に打ち込むなか、幸い近隣にピザを届けてくれる店がありまして、たびたび注文していました。一人では食べきれないので仲間同士で分け合うのですが、その時、「なんと手軽で和気あいあいと楽しめるメニューなんだろう」と思い興味を持ちました。
‐‐卒業後、ピザの先駆者であるJCフーズを手掛けるわけですが、その経緯は‐‐。
大河原 私の父(元日本ペプシコ社長)が一九六四年にピザ市場を狙ってJCフーズを立ち上げたのですが、軌道に乗らず、私が帰国した時は手を引く寸前でした。私には事業欲があったので、どうせクローズするなら一年間だけ任せて欲しいとお願いしたのです。学生時代の経験でピザには関心があったし、なによりピザの“楽しさ”を日本に紹介したいと思いました。
‐‐事業の将来性をどのようにとらえていたのですか。
大河原 当時は東京オリンピック、万博をきっかけに、国際的なビジネスが一気に広がるとにらんでおり、食生活についても米国の習慣が必ず押し寄せると確信していました。ハンバーガー、チキン、またFR、FFなど米国の主力メニュー、業態は国内の大手企業が触手を伸ばしていたが、マイナーなピザには手付かずでした。ならばJCフーズが市場を育てるチャンスと判断したのです。
また、学生時代に米国女性のライフスタイルの変化を目の当たりにしたことで、日本の女性にも同様な時期が訪れると予測していました。つまり女性進出に伴う台所仕事の簡素化です。手軽、健康的、楽しさが一品に詰まったピザは、万能メニューとして喜ばれるに違いないと思いました。
‐‐一度は手を引こうとしたJCフーズをどのように立て直したのですか。
大河原 ドル高の影響を避けるため、クラストを輸入から国内生産に転換しました。設立から二年間でマーケティングは終了していたので、国内生産で消費者ニーズに沿ったクラストを作る自信がありました。ですが、金融機関はピザをまったく知らないし、当時二四歳で何の財産もない私のやる気だけではどこも相手にしてくれません。家族六人それぞれの名義で、やっとのこと一口二〇〇万円ずつ集め、目黒に一九坪の工場を設立。工場長一人、パート一人、それにセールスの私を合わせた三人での船出でした。
‐‐それからは順調に売れたのですか。
大河原 まったく売れませんでした。当時はチーズの食習慣がなく、店頭で試食会を開催しても「ロウのよう」「せっけん臭い」と嫌われ、時には「こんなもん食わせるな」とおしかりを受けるほどでした。銀座や赤坂のバーやクラブでわずかな需要がありましたが、ロットがまとまらないため、どこの問屋も協力してくれません。仕方がなく五枚、一〇枚と一人で直接売りに回る日々が続きました。
社員を増やそうにも高度経済成長のあおりで人材はほとんど大手企業に流れてしまい、誰もJCフーズなど相手にしません。また、せっかく売れても夜逃げされたりで未収金も多く、昼間は資金集め、夜は売り歩くという生活パターン。まさに自転車操業そのものでしたね。
‐‐どのようにして軌道に乗せたのですか。
大河原 転機は国内のFRとの出合いです。「ロイヤルホスト」がチェーン展開を始めると聞いた時、アメリカナイズしたメニュー展開をするFRならばピザを売り込む絶好のチャンスと考えました。即座に当時の江頭社長に会いに飛び、ピザをグランドメニューに加えていただいたのです。後に「ロイヤルホスト」や後発のFRが全国に広まったのは周知の通りです。ピザの第一次拡販期はFRと足並みを揃えた頃といえます。
‐‐その後の市場展開は‐‐。
大河原 第二期はオーブントースターの家庭普及に伴う市販市場の拡大です。普及以前はほとんどの家庭にオーブンがなく、市販用のピザはフライパンの上にアルミホイルを乗せて、ふたをして焼く調理方法が主流でした。店頭の試供も同様。本来のおいしさを表現できずジレンマを抱えていました。
ところが安価なオーブントースターの普及で状況は一変。家庭でも手軽においしくピザが焼けるようになった。また、チルド流通も充実し始め品質も向上、市販市場はこれを境に急激に増え続けています。ハードとソフトが一体で伸びる手ごたえをこの時ほど感じたことはありません。
‐‐デリバリーピザを思い立ったのも大河原さんと聞きますが。
大河原 八〇年代に入り、新しい刺激が必要と思い、米国で流行していたデリバリーピザに目を付けたのです。弟(アーネスト・M・比嘉氏)に相談したところ、ぜひ自分の社(現ヒガ・インダストリーズ)で手掛けたいとの意向で、早速マーケティングを開始しました。
日本には昔から出前の慣習があるのでそれらと競合になるか否かからリサーチしたのですが、結果として既存の出前には欠点が多いことに気付きました。遅い、配達人に清潔感がない、メニューの形が崩れている、店で食べるよりもまずい、皿を返さなければならない。自転車、バイクのイメージが悪いなどです。これらをすべて改善すればデリバリーピザの市場性は十分にあると判断、「ドミノ・ピザ」展開にゴーサインを出したのです。
デリバリーピザはわずか一〇年で市場規模七〇〇億円のビッグビジネスに成長しており、今後も伸びる一方だと見ています。
‐‐昨年、ピザ協議会が発足、代表幹事となられていますが、その主旨と活動内容を聞かせて下さい。
大河原 ピザ業界は米国の例を見てもまだまだ大きな伸びが期待できます。業界が健全な発展を遂げるためにはピザ市場の成長を願う企業が集まってともに語り合い、力を合わせ、共同で問題点の解決に邁進することが大切、と考えています。団体として将来を展望するためにはマーケットサイズの把握が大切。初年度の取り組みとして、マーケットサイズを末端価格ベースで一七七〇億円とはじめて外部に公式数字を発表しました。本年度は日付制度の変更、PL法施行への対応をまとめていきたいと思います。
‐‐最後に今後のピザに対する夢を聞かせて下さい。
大河原 日本のピザ市場は米国に比べて二〇~三〇分の一。人口や食習慣を考慮して最低でもいまの五倍の市場規模に育てたいと思います。また、ピザは手軽でおいしく、楽しい、しかも健康的、それらをさらにPRし、“食品”ではなく“食事”として明るいイメージが定着すればと願っています。
‐‐ありがとうございました。
昭和16年生まれ。米国・ノースウエスタン大学、スイス・ジュネーブ大学では法学を専攻。卒業と同時にクラストメーカーのJCフーズの経営を父からバトンタッチ、ピザの認知普及に奔走する。ピザの魅力をなかなか理解されず、ダイレクトセールの日々が続く時代、「法学を学んだ私がなぜこんなことを……」と思い悩み何度もやめようとした。だが、学生時代に受けたピザに対する深い感銘を日本にも伝えたい一心で乗り切ったという。
いまでは日本のピザ市場の育ての親としてだれもが知るところだ。その七転び八起きの軌跡を聞いてみた。
(文責・岡安)