大きな転換期にきたラーメンチェーン店 元祖札幌や五反田店

1992.08.03 9号 10面

ラーメンチェーンが登場してきたのは、昭和四〇年代に入ってからのことである。それ以前は支那ソバ、あるいは屋台売りの夜啼きソバなどといっていた。

夜啼きソバはチャルメラ(小型のラッパ)を吹いて街を流し、主として“出前”で注文に応じていた。一杯が一〇〇円前後。食生活がまだ貧しい時代、安月給のサラリーマンや工場労働者、貧乏学生などが夜食として食した。

哀愁と貧しさ、裸電球が侘びしく灯った路地裏に、どんぶりの音が共鳴する。生活苦をにじませて中年の男が木賃アパートに出前してくる。貧しくとも希望があった時代の実存の世界である。ソバ屋も間口一間ほどの小さな店で薄暗く、客が一二、三人も入れば満席といったうらぶれた情景であった。

麺はかん水に晒した細い縮み麺。スープの味はかつお節か、トリガラ、コンブのダシといった感じのもの。しかも、大抵はしょう油味オンリー。具はひと把みのシナチクと、小さくて薄いカマボコが一、二枚、それに海苔一枚と相場が決まっていた。

それが四〇年代に入ると、今までの概念を破るラーメンが登場する。すなわち、コシのある生麺に味噌味のラーメンである。それまでは東京など大都市には味噌味のラーメンは存在していなかった。

味噌味のラーメンは札幌で評判となっていたもので、寒い北国のニーズに合ったものであった。それを東京(両国)に登場させたのが、「どさん子」なのである。昭和42年6月のことである。赤地に白い北海道マークの看板に、“札幌ラーメンどさん子”とネーミングし、店構えもレストラン風に明るくした。

看板メニューはもちろん味噌ラーメンである。本場札幌の味に比べ、やや薄味であったが、それでもコクがあり、胃にしみ入った。具もシナチクはもちろんのこと、チャーシューにモヤシ、トウモロコシが加わった。

それにドンブリもひと回り大きく、麺のボリュームもあった。店の雰囲気も商品の内容も、明るくリッチなものとなった。今までのラーメンのイメージを大きく変える商品と店構え、店は連日の大入りとなった。

どさん子ラーメンの大ヒットのヒミツには、独自の味づくりにもあった。北海道産の良質の“ラーメン味噌”の確保に、一三種類ものスパイスをミックスしたオリジナルの“かくし味”を開発したのである。

このコクのあるかくし味が、客の味覚を満足させ、胃袋をやみつきにさせた。また、店舗の運営においても独自の工夫をおこなった。味の均一化と安定化のために調理マニュアルを完成させたこと、店は基本的にはカウンター席とし、人手も一、二人で対応できるレイアウトとした。

標準店舗規模一〇~一五坪。一日の売上げ四~六万円。大卒の初任給が二万円前後の時代である。FCの第一号店は42年9月で、当時の国鉄の大井町駅前に出店した。この店も連日の大入りとなった。評判を聞きつけてFC店の希望者が増え、翌年(43年)早々にはFC店は一四店に拡大し、店舗数は直営の六店を加え、計二〇店のスケールになった。

このどさん子ラーメンチェーンの成功に先導される形で、東京市場において“札幌ラーメン”ブームが起り、43年以降FC展開に参入する企業が相次いだのである。

「どさん娘」「どさん子大将」「ラーメン大学」「大龍チェーン」……などは、そのころに市場参入したラーメンチェーンであるが、この時代はまたアメリカのファーストフード上陸にインパクトを受けたFCビジネスの始まりでもあった。やがてラーメンのFC展開は全国に拡がっていった。

それから二〇数年の年月が経過する。この間に過当乱立、類似店の林立による質の低下などで、消費者離れを引き起こして、チェーン展開がパワーダウンしたこともあった。しかし、その後は各チェーン企業の努力が実って、ラーメンを食文化の一角として位置づけ、現在では“国民食”と形容されるほどに市場を安定させている。

しかし、FCビジネスの中味となると、①コスト高でとくに市街地での出店が困難になってきた、②店が老朽化してきた、③人手の確保が容易でなくなってきた‐‐という状況が出てきており、ラーメンチェーンは新たな試練に立たされている。

これらの課題をどうクリアするかで、ラーメンチェーンの将来性が決まってくる。業界の共通した考え方は、店舗の出店については、市街地から郊外ロードサイド、あるいは地方都市への出店、また既存店のリニューアルに取り組むことによって、FC展開を推進していくとしており、ラーメンチェーンの出店戦略は新たな局面を向えている。

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