店主の本音・プロが訪ねる気になる店
イタリアが今ほどに開放的ではなかった一九八〇年代に、イタリア料理の武者修業に出掛けた二人のシェフ。一人は「アクアパッツァ」日高良実シェフ、一人は「ラ・ゴーラ」澤口知之シェフ。期間は異なるが、北から南へ料理放浪しながらの修業を経て帰国。同じく日本の食材を使いながら、日本人が日本で作るイタリア料理の普及に努める日高シェフ。かたや日本の食材を使いながらイタリア料理にどれだけ近づけるかに挑戦する澤口シェフ。両者が、それぞれの思いで展開するイタリア料理について語ってもらった。
◆訪ねる人=「ラ・ゴーラ」澤口知之オーナーシェフ
(さわぐち・のりゆき)=イタリア料理「ラ・ゴーラ」オーナーシェフ(東京都港区六本木七‐四‐五、Tel03・5410・5550)
一九五八年鹿児島県生まれ。七〇年代の寺山修司の影響を受けたのか、母親が料理教室を開講していたこともあってか、いつしか夢はアメリカへ。行くにあたって、「西回りで行きなさい」という母親の一言で、立ち寄ったのがイタリア・フィレンツェ。そこが気に入って住むことになるが、一年を待たずにあこがれのアメリカへ。ところが結局、一つのことに集中しなくてはすべてが中途半端に終わるのではないか、という警告を受け、再びイタリアへ。
イタリアでは北から南へ、ミシュランの星つきホテルから屋台までと若さにまかせて精力的な料理放浪をする。トータル七年間の滞在の後、一九九二年帰国。翌年、六本木にバールとトラットリアの二つの顔をもつ現在の店「ラ・ゴーラ」をオープン、現在に至る。
◆迎える人=「アクアパッツァ」日高良実オーナーシェフ
(ひだか・よしみ)=イタリア料理「アクアパッツァ」「マンジャペッシェ」オーナーシェフ(東京都港区西麻布三‐二一‐一四、角張ビル1F、Tel03・3403・7735)
一九五七年神戸市生まれ。高校時代に八百屋の配達、ゴルフ場のキャディ、喫茶店のウエーターなどのアルバイトをするが、喫茶店で見よう見まねで作ったスパゲティが意外に好評だったことから料理の素晴らしさを実感。大学受験失敗を機に調理師学校へ入学。卒業後、神戸ポートピアホテルの「アランシャペル」などでフランス料理の修業を積む。フランス帰りのシェフが脚光を浴びる中、あえて未知の世界イタリア料理に挑戦。八六年、二八歳でイタリアに渡り、精力的に北から南まで地方料理を武者修業。三年後に帰国、「リストランテ山崎」の料理長を経て、西麻布の「アクアパッツァ」、同青山店、「マンジャペッシェ」をオープン、三店の総料理長として活躍する。
澤口 日高さんは同時代でくくるのを嫌がるが、似通った飲食環境を過ごしてきた年代だけに理解しやすいと思うが。
日高 もうすぐ四二歳。
澤口 私は本厄が終わり、良いことばかり(笑)。昔の日本は働き出すスタートが早く、四二歳ではそろそろくたびれてくるころ。スタートが遅い私は、ますます元気(笑)。
日高 よくもっている。われわれより一〇歳上の世代が第一世代。彼らが築いてきた料理を見、実際にイタリアへ行ってみて認識を新たにしたことが多々ある。
澤口 私はイタリアに行ったり来たりして、結局七~八年。日高さんの充実した三年間とは違う。
先輩にも言われたが、修業は三年まで。それを過ぎると生活者になると。たしかに言葉も友達もできるとそのまま居着いてしまおうという気になる。
日高 実際にイタリアへ行き、認めてもらおうと立ち回るが、結局、逆にはねつけられた。
彼らにすれば何故自分の国の料理があるのにイタリア料理を勉強しに来るんだとなる。フランスの星付きレストランなら世界中から料理修業に来るからそんなこともないが。
澤口 われわれはそんな国へ身銭を切り高い飛行機代を払い、いつ不法就労で捕まるかとビクビクしながら修業をしていた。今思えば、時期としては良かったと思っている。
日高 向こうではだれにも負けたくない、一番になるんだと頑張ったが、しょせんイタリア人にはなりきれないと悟る。
帰国して相手にするのは日本人。病気になった時、われわれはおかゆを食べる。向こうはコメをボイルしオリーブオイルをたっぷりかけた上、チーズもかけるお国柄。
それをそのままそっくり持ってくるのではなく、日本人が日本でできるイタリア料理をやろうと腹を決めた。
もともとイタリア料理のコンセプトは、その土地にあるものを、その季節に使うことにある。これは理にかなっているので、日本の食材をどんどん使っている。
ただ調味料を替えたのでは無国籍料理になる。例えば基本的な調理法の一つににオリーブオイルにニンニクを入れる時、温度が低いうちに入れる。玉ネギも同じ。こうした部分を変えず、プラスアルファして私の料理を出していく。ただそれには、はしではなく、ナイフとフォークで食べる料理にする。
澤口 イタリア料理は、北から南まで各地方の料理があり、領域性をもっている。私は、日本の食材を使ってイタリア料理にどこまで近づけるかに挑戦したい。日常的な材料を使ってどれだけおいしい料理を作っていくかです。
それにしても帰国した時驚いたのは、お客が前菜からデザートまでのメニューを、スンナリ食べていたこと。
皆さんの努力のたまものとも思うが、ファッション、映画、建築、美術など取っつきやすいテーマがあるせいか、海外旅行ブームで実際にイタリアへ行く人が多くなったことも一つにある。
澤口 私は、食を文化ではなく生活に浸透した飲食習慣ととらえている。飲食習慣としてとらえないと一過性に終わってしまう。
例えば、エスプレッソ。最初は苦いといって飲まなかった人も慣れてくると習慣づけられてくる。
こうした習慣づけをするには、日本で日常的に使われ、イタリア料理にも使われる食材を組み合わせていくことです。大根はイタリア料理には使わないが(笑)。
日本の食材ではメーンとなるものが弱くても、香草を使って近づけていく。一つの料理に乳製品、油、香草などをどう使っていくかが求められる。
日高 イタリアへ行く前、日本滞在四〇年になるリストランテ・ハナダのルイシェフが、豆腐を使ってイタリア料理を作っているのを見て感激した。一つの料理がいろいろな土地に根付いていく、これが料理なんだな、と。
また、イタリアにいた時、他国の料理を意識して取り入れていたイタリア人シェフがいた。固定観念にしばられることなく、柔軟な発想でアイデアの限りを尽くしているのには考えさせられた。
澤口 今の話は、日高さんのように基礎がキチンとしているから、こうなったらおいしいだろうと頭に描けるからであって。
これがなくては、イタリアのコメと日本のコメは違うのに、日本のコメをガッチリ芯をたててアルデンテに作ることになる。
イタリアでもトリュフを使う時、ニンニクを外すとか細かい組み合わせは人により異なる。
よその国へ行き、その領域に入り、他の人が知り得ない細かい差異を自分で体得したものを顕在化するのが料理、と言った人がいたが、同感である。
澤口 ところで二一世紀のイタリア料理はどうなるのだろうか。
日高 ヨーロッパは統合され、イタリアは一地方になるだろう。いろいろな民族、国の人が入り交じりベーシックなものは残るが、多様化されてくるのは間違いない。
日本では、ただ珍しさだけで一時はやったんでは価値がない。それがどんどん引き継がれ、その料理を作る人が増え、商売としてやっていけるようならレストランの料理として残るだろう。
澤口 これからは安定的に定着していくと思う。学校の給食のベスト5にスパゲティ、ハンバーグ、カレーのほかピッツァが入っている。この子たちが育っていったら料理の領域性、偏見性がなくなっていくだろう。
日高 今、日本で作られている家庭のイタリア料理は、短時間で作れ、しかもおしゃれ。良いステージの上に立っていると思う。
私は、料理番組などを通して日本の食材を使ったメニューの提案、イタリアンらしくオリーブオイル、アンチョビの使い方などを教えていく。また、店ではシンプルかつうまい料理を信条に、食材そのものを味わってもらうようにしている。
澤田 日高さんは料理教室と店を分けているが、イタリアでは料理学校がなくともキチンと伝えられている。
その点、日本ではわれわれがやめてしまったら途絶えてしまう。料理のスタンスは、一〇〇年のスタンス。結果はどうなるかわからないが、一人ひとりが役割を果たし、積み重ねていくしかないと思う。













