店主の本音:師弟対談「横浜中華街の今昔を語る」
師弟関係から結ばれるきずなはどの世界にもある。料理人の世界も同じ。横浜・中華街を去来する料理人を束ねる中華ファミリーもその一つ。師から受け継ぐ中国料理法を次世代に伝えるべく奮闘。世代のギャップを越え、同心円を描きながらきずなを強める山本ファミリーの中核的存在である広東料理「均元樓」の山本猛調理長を、「北京飯店」の関雄二料理長が訪ねた。
訪ねる人=北京飯店料理長・関雄二氏
(せき・ゆうじ)=中国料理「北京飯店」料理長(神奈川県大和市中央二‐四‐一八、Tel0462・61・7160)
一九六三年横浜市生まれ。家業がすし屋であったことからごく自然に料理人の道を進む。横浜・中華街の「徳記」「白楽天」などで広東料理、「大沼飯店」などで四川料理を修業。このころ、終生の師と仰ぐ丁自平シェフに出会い、触発され妻子を残して渡米。弱肉強食のアメリカではあったが孤軍奮闘、チーフとして認められる。
帰国後、「北京飯店」料理長として迎えられ、師から学んだ四川古来の料理に加え、自らのオリジナル料理をぶつけていく。
迎える人=均元楼調理長・山本猛氏
(やまもと・たけし)=広東料理「均元樓」調理長(神奈川県横浜市中区山下町一五二、Tel045・651・9346)
一九四六年旧満州生まれの長崎育ち。一七歳で地元の福建料理店で修業するが、見よう見まねの料理に不安を感じ、横浜・中華街の「北京飯店」「重慶飯店」で出直し修業をする。三〇代で小さいながら念願の店を持つが、一本気な性格が災いし閉店に。現在、師と仰ぐ台湾出身の趙有才シェフから学んだ上海料理と四川料理がミックスした川揚菜を自らの看板とし、「均元樓」の調理長を務める。中華街を離れた料理人たちからは、山本ファミリーのドンとして慕われている。
関 山本さんとの付き合いは、師匠の丁自平さんの帰国歓迎パーティー以来だから、二〇年にはなりますね。当時山本さんから「鑑別所ぐらい出ていないと一人前でない」と言われたのを今も忘れられない。それくらい気持ちを入れてこいという意味と思うが。
山本 実家は江戸時代から長崎に住む華僑。丁さんも私も環境からコックを天職と思っているところがあるから、そう言ったんでしょう。
考えてみれば田舎からボストンバッグ一つで上京。空き待ちで横浜中華街の北京飯店に入った。
当時は本もあまりないしレシピもなかった。陳建民氏の弟子の丁自平さんから教わり、コピーして自分のものにしていった。後にきちんと勉強したくて川崎飯店に行くんだが。
関 山本さんは、休みになると私の車を借りに来て、若い者を連れてドライブに行っていた。この姿を見て、若い者との付き合い方を覚えました。
山本 若い者といえば、見習いは見て覚えること。学校ではない。うちは会社から言い渡されている休日をすべて没収し、私が管理している。「早番、遅番なんてまだ早い。仕事を教わりに来たんだろう。休みを返上してでもやらせてくれと言えないのか」と言っている。
初めて親御さんに会う席上で、この店はすべて私の胸三寸で動かしていると。もし不服ならいつでも辞めて、もっと仕事の楽なところへ行けばよいと釘を刺している。意外に辞めないでいるが。
関 うちは洗い場を入れ一六人でやっている。みんなには、働きに来たんではなく、習いに来てるんだと。休みがあるとかないとかぜいたくは言うなと言っている。
山本 宿泊は無料、三食付き。休みをもらって給料もらって何が文句あるんだと(笑)。
関 私から一番下の若い者まで、みんなそうした生活だったので、これが当たり前と教えている。トップの姿を見て習えと。
山本 自分が手を出さなくても良い時は手を出さない。ただし忙しい時は自分一人ですべて切り盛りできるから心配するな、嫌になったらいつでも田舎に帰れと、突き放して言う。まかないの味でもまずいとはっきりいう。おまえの母親はこんなまずいものを食わせていたのかと(笑)。
関 しょっぱいものとか甘いものしか作らない子は、おまえは冷凍食品しか食べたことがないのかと言ってしまう(笑)。結局は味覚です。
山本 最終的においしいものを作るには、おいしいものを食べなかったら培っていけない。これは基本。コンビニで立ち読みする時間があったら、どこかへおいしいものを食べに行け‐‐と。
うちの店では毎月一回、お客のチップをプールしたものや、みんなから徴収したお金で勉強を兼ねて普段食べられないものを食べに行く。
山本 最初の師匠から上海料理、次は丁さんから四川料理を習い、ドッキングした私の料理は川揚菜。
師匠から習った昔からの料理はキチンと残しておかなくてはいけない。看板は広東だが、四川も出す。
私がここに来た時、現存のメニューをこなしながら少しずつ味を変えていく、山本流でやると話はついていた(笑)。
関 私も四川料理の基本的味付けを守りながら少しずつ変えている。例えば砂糖を使うものはしっかり使い、使わないものは使わない。エビチリは砂糖を使わなくても甘くておいしくできる。
山本 今までは砂糖、化学調味料をバンバン使っていたが、原点に戻って、塩味のケチャップをうまく作るよう教えている。合わせ調味料をなんの抵抗もなく使えるのは関君の年代。われわれは長い間教わった味があるから、そのまま踏襲しなくてはという思いが強い。
こわいのは、メーカーからいろいろ入ってくる食材をどうチョイスするかは、それなりの経験がないと難しい。
関 仕入れのこだわりがいわれているが、われわれは料理を作るだけでなく、売上げも上げなくてはいけない。お客の要望もあるかもしれないが、コックのマスターベーションと思う。それを使わなければその料理ができなかったらコックは失格。コックは与えられた材料でおいしいものを作るのが使命。
こだわりのネギを使ったからと、客がこのエビチリのネギはうまいねとは言わない。こだわった結果、売上げが上がらないのなら、与えられたものを使い、より良いものを作り、売上げを上げたほうがベストと思う。
山本 食材のこだわりは、その店のアピールの一つであって、出来上がりがベストであれば良い。
関 中華街が変わったと思うが。
山本 昔は年齢層が高く、この店の北京ダックを食べたいとか、北京ダックはこのコックさんのがおいしいと、お客は知っていて店に来た。
今はテレビの時代。うちのお焦げの料理が放映されたら、番組が終わった途端に、お客がどっと押し掛けてきた。
入ってくるなりお焦げの料理をやってますかという。うちはまるでお焦げしかやっていないみたい。
はっきり言って、来て欲しくない。なかにはリピーターもいるが、九〇%は一見客。常連客にも迷惑をかけ、離れていく。
関 私は、テレビに出るとお客がドッと来るのを山本さんの例で知っていたので、その日は前もって用意しておいたから良かった(笑)。
山本 テレビ出演の時、私はタレントではないと言っている。この世界で成功している人は、料理人というより男としての成功者とみる。
関 日本での中国料理はいろいろ変化しているが、いまだに回鍋肉、エビチリなどは厳然として残っている。必ず原点に戻る時代が来ると思う。その時のためにも、ちゃんとした料理を作る店を残さなければいけない。
山本さんはチャームポイントをつくるよりセールスポイントをつくれと言われた。
山本 自分をセールスし、それに感じて来てくれるお客は財産。
関 中華街を離れ、われわれが今後どう自分をアピールしていくかが問われている。