忘れられぬ味(62) ヤグチ社長・萩原弥重 中国農村婦人の手料理
昭和48年春の広州交易会で中国産マッシュルーム缶詰(二oz×二打入)を日本で初めて、しかも一〇万箱の大量輸入をしました。その実績で昭和50年~53年の間に二度ほど当社主催のマルヤ会会員の訪中団を受け入れてくれました。その時の思い出に「忘れられぬ味」があります。
当時、訪中には参加者の戸籍謄本を中国側に提出して許可を頂く方式でした。旅行業務は中国の中国旅行社が窓口で、現地に到着してから宿舎を割当てることになっておりました。
日暮れに北京に到着すると、本日は宿泊するホテルが無いので天津までバスで移動してくれとのこと。バスは暗闇の野っ原を無灯火で相当なスピードで走りました。途中小休止をしましたが、暗闇とはいえご婦人方はお困りになられました。
宿舎で天津ラーメンを食し、翌朝中国側の好意で天津空港より瀋陽までヤグチ特別機(一〇〇人乗りくらいの中型機)で移動しました。初めて見る広大な原野に驚嘆したものです。藩陽ではかつてのロシア軍将校専用の迎賓館が宿舎でありました。当時でも中国軍の歩哨が着剣して門に立っておりました。
中国の旅行は中国側の意向で行動することが多く、一般家庭を数軒訪問し、また学校や工場も訪問させられました。工場見学はグルタミン酸製造工場(戦前の味の素(株))で、まだ黄色のグルタミン酸でした。ビール工場は戦前の麒麟麦酒(株)であり、両者ともに戦前の工場設備で機械も古いままでした。
その折、瀋陽郊外の片田舎の農業公司の見学に行きました。昼食時に村の婦人の手料理をご馳走になりました。その味が忘れることのできぬ美味で、今でも当時の話が出るとその味の良さが話題となり、その秘密は何であったかとなります。
私はこのように思います。食事のうまい、まずいは、作る人の愛情からと言われております。旧満州の地で汗を流してくれた先輩日本人の方々が現地の方々の中に溶け込んで信頼関係を深めてくれたことが、われわれ日本人がわざわざ来たということから、心から接待してくれた真心の味と思います。
中国の片田舎の料理が長い間多くの人々の研究によって、世界に広く愛されている中国料理となり、一方ではイタリア・フランス・日本・韓国など世界の民族食がその土地で研究洗練され世界の味となり、人々の食によって信頼の交流になり、平和と健康と豊かさと楽しさを醸し出す食文化に発展したものであると思います。この国々の民族食の交流によって、またその国々の産物を広く紹介することは、これら国々の風土を理解し、相互の理解と信頼をもたらす平和の使節の役割を果たすことであります。自分の職業が食を通じて人間の愛と和の環を広げる一端を担わせてもらっていることに感謝と誇りを持つことが、さらなる貢献ができることと思う毎日です。((株)ヤグチ代表取締役会長)
日本食糧新聞の第8397号(1998年7月15日付)の紙面
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