元気インタビュー 大東カカオ・竹内政治会長 20世紀をココアと共に

1997.01.10 16号 16面

「ココアひとすじの男」は百歳を迎えた。ココアは身体にいい。その生き証人として…。そしてあの「ココアブーム」を仕掛け、大成功させた。何十年も前のことをまるで昨日のことにように正確に話し出す。静かに穏やかに語り続ける。97年の年頭の元気インタビューは百歳にして、バリバリの現役経営者、20世紀をまるごと生きる男、大東カカオ(株)会長竹内政治氏からスタートする。

「ココアほど身体にいいものはない。それは自分の身体の健康が証明してくれている。このココアをたくさんの日本人に飲んでもらいたい」と願い続けたという竹内政治氏。

「ココアを飲み始めたのは六〇歳の時から。毎朝大きなカップに一杯、温かいものを。朝起きて休まった身体に一杯のココアが一番いい飲み方だと思いますよ。おかげで身体は悪いところナシ! 私がココアが身体にいいことを証明してるでしょ。あと一〇年は大丈夫だと言われています」

始まりは一四歳、故郷の愛知県から上京。菓子屋の見習いを経て、二〇歳で、独立。「商いをするなら人が扱わないものをと思っていてね。チョコレートを初めて口にしたとき、これは珍しい菓子だ、これからは売れるだろうなと、直感です」

働きづめ働いた。「結婚しても朝早くに家を出て商売に出かける。結婚前と変わらない。妻の名はさわといいますが、さわも働き者でした。昼食を2時頃家で一緒に食べて、また夜遅くに一緒に食べる。その生活で四〇歳まで何一つわがままを言わなかった。私も重宝に扱いましたよ。私は酒もタバコも女もやらない。商売だけ。妻から見ても模範生でしたね」と笑う。

ココアは記憶力、集中力も増すと言われる。それをも証明するかのように竹内氏は七〇年以上前の話を正確に語る。「自分でチョコレートを作りたいと思ったのは大正10年。最新の機械がある森永製菓の工場を見学する約束は出来ているのに暇がない。毎日の商売はリズミカルに進み、休めないまま二年が過ぎた。でも2月に大雪が降ったんです。この雪が幸運でした。仕事にならないからやっと工場見学に行けたんです」。

「工場に感心してしまってね、人間が少なくても物が出来るでしょう。自分もやろうと決心したんです。そう思った秋口、9月1日、関東大震災でしょ。神田の問屋街はすべて焼失です。これを機会に問屋をやめました」。

それから製品ができたのは一年後。時代は大正末年、戦前のチョコレート最盛期を迎える。

戦争が始まる。日本政府から「企業整備令」、「輸入整備令」が出た。「厚生省から日本薬局方カカオ脂の指定工場にする話が持ち込まれましてね。カカオ豆が自由に手に入るありがたい話でした。それで大日本ココアバター製造株式会社を設立したんです。そうしたら今度はカカオ豆からテオブロミンをつくれという。これは腎臓、心臓用の医薬品なんです。カカオ豆からは薬さえできる。改めてその効用に驚嘆しました」。チョコレートから薬へ。終戦を迎えた。

「曲がったことがイヤなです。私はヤミはやらなかった。戦時中は海軍省から落花生ミルクの製造を依頼されたが戦後は今度は農林省から依頼がきたんです。千葉の農協に行ったら職員が私に泥棒だと言う。問いつめたらこの落花生をヤミで売ったら一三円のものが一万円にもなると言うんだもの。人間いうのは、あさましいものだと思いますよ。でも人に恨みを買う商売はいけないと思って落花生ミルクはやめました」。

戦後、復興が始まる。チョコ業界にも明るい見通しが見え始めた。「六〇の時に早朝の工場でけがをしてね、身体が健康であることの大切さを痛感した。その頃、カカオにテオブロマ・カカオ(神様の食べ物)という学名があることを知ってね。チョコの製造はカカオの他に砂糖やミルクがいる。けれどココアなら原材料は神様の食べ物のカカオ豆中心で採算も合いそうだ。何より身体にいいのならこれに力を入れてみようと思って。まず自分が実験台になって毎日ココアを飲もう。それがいまでも続いている毎朝のココア習慣です」。朝一杯のココアを飲みはじめてからちょうど四〇年、起るべくして起こったココア・ブーム。夢が実現したちょうどその年に百歳を迎えた。

食品界最長老の現役経営者は「やりたいことはまだまだたくさんある。仕掛けはこれから」と二一世紀を射程内に捕える。

●プロフィル

竹内政治(たけうちまさはる)百歳=明治29年6月25日、愛知県生まれ。20歳で独立。28歳、竹内商店を開業。44歳、社名を大東製薬工業(株)に変更。56歳、日本チョコレート・ココア協会を結成、理事に就任。66歳、医薬品の製造をやめ、社名を大東カカオ株式会社に変更。86歳、勲五等双光旭日章受章。95歳、会長就任。

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