元気インタビュー 日清製油・最高顧問 坂口幸雄氏 「老人の森」に光を

1995.10.10 1号 4面

日清製油(株)の坂口幸雄最高顧問はいま九四歳だが、その言動は矍鑠そのもの。氏が語る老齢文化の必要性など、教えられるところは実に多い。

(聞く人=本紙・伊奈一郎会長)

高齢化社会の到来に当たり、行政などは老人福祉の充実だとか、余生の楽しみ方だとかを提案しているが、その只中にいる私からするとそんな甘いものではありません。私はよく、「老化との闘い」「老化に挑戦する」という言葉を使います。ただ生き長らえているだけの「長命」では意味がない。

老人自らが積極的に人生を楽しむための生き甲斐を持って主体的に生きてこそ、初めて「長寿」といえる。そのためには「老齢文化」の確立が必要。政府にはそういう視点からの指導をお願いしたいものです。極端なことを言えば、シルバーになってから大学へ行って勉強し直してもいい、そのためのシステムを充実して欲しい。TVの歌番組でも、小説でも、もっと高齢者が楽しめる文化が欲しい。

私たち老人向けのカラオケ設備があったら本当に楽しいです。これからはそういう健康老人社会を構築することです。

健康の基本は食生活ですが、この分野においても私たち高齢者に向けての提案はほとんどありません。ホテルに行ってもシルバーメニューなどは案外揃っていない。

年を取ると、食の趣向も分量も若い時と違ってくる。以前はご飯を三膳食べていたのが一膳で十分になる。私は若い頃からお酒が好きだったので今でも二分の一合だけ、ほんの少しの晩酌をします。

その時の肴もやはり昔とは変わりましたね。焼魚、煮魚がいい。刺身は、医者によっては奨励しない通り、あまりおいしく感じないですね。むしろ干物のほうがいい。

肉は週に一、二回食べます。野菜サラダは欠かさず、毎日老妻に作ってもらっています。これがなくては食が進まないのです。だから、「とにかく、俺より先に死んだりしちゃイケナイよ」と言ってますよ。もし家内がいなくなったら自分で料理を作らなくてはならないが、そうした老人食を習いに行く学校もない。料理学校の対象も若い人ばかり。残念ですね。シルバーメニューを教えてくれる料理教室があったら私なんか喜んで習いに行きたいですよ。

よく私がたとえ話で言うのですが、年を取ると誰もが入る「老人の森」というのがある。この森の中には鳥もいるし川も流れているのだが、この鳥は鳴かないんですね。川にも魚はいない。本当にいないのか、ただ見えないだけなのか分からない。ところがなぜかある動物が一匹いる。何かというとタヌキです。高齢者の中にもお金持ちがいるので、これをだましに現われるのです。気を付けなくてはいけませんよ。老人の森で迷っている人に対し進むべき道を示す、それこそが老齢文化の確立による老人社会の整備なのです。

老人の森にいる人たちがこういう気分になればいいなという中国の詩があります。「青山不老 緑水長存 後会有期」。山はいつまでも青く、川はいつまでも流れている。長く生きておれば、いつか会う機会があるという意味です。

上手な歳の輩ね方を表わした中国の詩というと、孔子の話を思い出しますね。「一五にして志を立て…、四〇にして惑わず、五〇にして天命を知る」というのです。ところが、これは「七〇にして心に従って則を越えず」で終わっている。七〇歳になったら心の赴くまま、思う通りに行動しても則を越えないようになるという達観は素晴らしい境地ですが、その先がないのでは困る。九〇になったらどうしたらいいか、本当に孔子に聞きたいところですが、孔子は七四で死んでしまったから仕方ないですね。現代の高齢者はその先を自分で考えなくてはなりません。

私は一九〇一年、明治34年生まれの満九四歳です。知らないうちに食品業界の中で長老的存在になっていました。この前ある席でのこと、私にスピーチの依頼が来たので、「もっと先輩の人にお願いしてくれ」と申したら、「そんな人いない」と言われピックリした。

本当に、その時あたりを見回したら私より高齢の人はいなかったんだから。先輩が手紙に書いてよこした「登るほど、あたりは淋し、老いの坂」という句を思い出しました。先輩や友人が段々いなくなるのは淋しいこと。その淋しいなかどう生きるかが重要。だから精神面での支え、つまり文化がなくてはならないのです。

先般、戸塚ゴルフクラブで行なわれた敬老招待コンペに、数え七〇歳以上、一〇〇人余りの申し込みがありました。その内訳が七〇歳代の人が約四○人、八〇歳代の人が約五〇人。七〇歳代より八〇歳代の人の方が多かったんですね。そして九〇歳代は全部で六人。

その六人のうち五人が九〇歳、残りの一人が九五歳でした。それは誰あろう。満九四歳の私なのです。

八〇歳代の人の割合が多く、その後ガクッと少なくなる。八八歳の米寿くらいまでは頑張っている元気な人がなぜかこの境で急に歩けなくなる。ゴルフがゴルフにならない。人間歩けなくなると、他の器官も一気に弱くなってきますからいけません。やはり歩くことは基本です。

故郷の長野で旧制中学に通っていた少年時代は一日一二km、往復五時間の道のりを歩いていました。片道毎二時間半、あちこちの村々から一人、二人の生徒が出てきて学校の近くになると五~六人ずつにまとまっていくんですね。

懐かしいなあ。私は千曲川、犀川の二つの橋を渡って通いました。

春の季節になると千曲川の川面に雪のアルプスの山々が写って、ゆらゆら揺れるんです。のどかな春、その春の日の景色をうたった私の詩、「アルプスの春雪映える 千曲川」を刻んだ石碑を一昨年若き日の思い出として、かつて我が希望のガタガタ橋、ロマンの関崎橋畔に建てました。

中学を卒業した大正10年は大不況でした。就職といえば、役人になるか先生になるか軍人になるかしかない。私は先生になろうと思って恩師に相談したのですが、成績が良かったのでもっと上級学校へ行けと勧められた。どこがいいかと聞いたら、これからは中国との関係が大事だから上海にある東亜同文書院を受けろと先生は言う。各県から二~三人を選抜する試験があって、その試験を受けに行ったら志願者が三〇人くらいいるので、これはダメだと思ったのに合格してしまった。いよいよ私が村を出る時、村人が盛大に千曲川開崎橋たもとまで見送ってくれました。「坂口さんのところの子供が唐天竺に行く。きっともう二度と戻ってこられない」と言われた。そういう時代です。

東亜同文書院卒業後、日清製油に入社、大連支社に勤務することになった。遠い異国にいるので「病気だけはしないように」と両親に固く言われた。それで暴飲暴食を避け節度ある生活を心掛ける習慣がつきましたね。同じ年格好の仕事仲間が酒、タバコに際限もつけず不摂生な生活をしている中で、私はタバコはのまず、酒は適量という習慣を守りました。自分で自分の脈を診る方法もこのとき習得しましたね。

いま朝ご飯はずっとパン食、パンと牛乳が大好きなんです。私は小さい頃は身体が弱かったので、親が牛乳を飲ませてくれた。あの頃の田舎の牛乳は旨くて、他の食品に比べ栄養価がグンと高かったものです。それ以来ずっと朝は牛乳に季節の果物を食べるようにしています。これも良い習慣になっていると自分で思います。

今年の五月、前立腺の手術で生まれて初めて入院ということになりました。私もこの世とお別れかと真剣に思った。九十何年間、一度も入院したことのない人間というのは、現代において大層珍しい存在だそうですが、三週間で全治、退院しました。人の話によれば、前立腺の手術というのは普通、六〇代前後でやるものだから私の身体の器官はまだそのくらいの若さを維持しているという。

私のことだけでなく、五〇年といわれていた人生がこの半世紀の間に八〇年にまで伸びた。今後は九〇、百が普通という時代になります。長命でなく長寿をハツラツと生きられる時代をつくっていきたいものです。