らいらっく人生学:閉じこもり症候群

2004.04.10 105号 11面

定年後の生き方をみるに、仲間を求め、講演会や老人大学などに積極的に参加する人と、内に閉じこもり、独り晴耕雨読に徹する人との両極端の間に、さまざまなパターンがある。人生の達人はもちろん、積極派を支持し「世間とのかかわりを維持し参加すべし」と教える。果たしてそうか。

筆者はといえば生来の不精者、放っておけば歯も磨かず、ひげも剃らず、恐らく風呂にも入らず、腹が空くまで寝ているのではないか、と思ったりする。幸い女房に恵まれ? 友人、隣人のおかげで、旅に出かけ、さまざまな会合にも顔を出す。

そういう生き方に不満はないが、心のどこかで「ただ静かなるを望みとし、憂へなきを楽しみとする」鴨長明への憧れが捨てきれない。ただし長明の場合、浮世の恨みつらみ、憂いを抱えた隠棲だったのかもしれないが……。

それならば、脊椎カリエスをわずらって「病床六尺」に閉じ込められた正岡子規はどうか。この一室から凝視することによって、子規は近代俳句の道を拓いた。また、熊谷守一は晩年、池袋の自宅をほとんど出ることなく、一六坪に足りない庭の自然を観察し、生命の根源に迫る絵画を描いた。

クロード・モネは、隠者ではなかったが、パリ郊外ジヴェルニーの庭にこもり、「睡蓮」をはじめとする、この庭が題材の数々の名画を残した。筆者が惹かれるのは、モネが「絵を描くのは自分の庭造りの資金を調達するためだ」と述べているところ。モネは、世に美を問うためではなく、庭に閉じこもるために絵を描いたのだ。

もし、ピンピン・コロリと人生を終わること叶わず、世間と隔絶して寝たきりの晩年が続いたとしても、絶望することはない。閉じこもるのもまた、楽しからずや。この春先、思わざる寒さに、筆者は一週間ほど家に閉じこもったままだったが、気分はすこぶる、よろしかった。

(エッセイスト 富永春雄)

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