センティナリアン訪問記 百歳人かく語りき:千葉県・潤間一也さん(98歳)
潤間さんは生まれも育ちも、海に面した漁業の町・千葉県市原市。1908(明治41)年4月29日、潤間家4代目の長男として生まれた。市原市は東京湾の魚介類、特に海苔の一大収穫地で、周辺には多くの漁業組合が競うように漁で生活を営んでいた。
潤間さんは漁師が操る漁労船の船大工。「1艘(そう)に10人も漁師が乗り込むような船を作った」という。大正から昭和の初め頃にかけては漁業組合の活動も活発で、顔が広く、面倒見の良い潤間さんは船大工をしながら組合長や会計役もやったという。いわば若い時から“顔役”として地元に尽くした。
戦争体験も重ねた。「先の戦争では重慶に1週間、南京に2年、台湾に2年、近衛兵として従事した」という経験を持つ。「入隊して3日目に精神訓話を練習させられた。朝・晩軍人勅諭を声を出して読み、半年かけて暗記した」と当時の生活の一端を語る。
戦後、市原市周辺は一気にコンビナートなどの建設が進み、工業化の波を受けた。漁業組合は相次いで機能を失い解散に追い込まれていった。「漁業の保証金800万円をもらい、それを元手にして1952(昭和27)~1985(昭和60)年までの間に、養老渓谷に35棟のバンガローを作って経営した。駅(小湊鉄道・養老渓谷駅)から近いこともあって、繁盛しました。そして、その売上げで、土地をずいぶん買った」という。経営の才も相当だ。
同居している次男で町会長の功さん(63歳)は「じいさんが死んだあとから、買いあさった土地があっち、こっちから現れるかもしれない」と笑う。
潤間さんにとって最大の“事件”は1923年9月1日に起きた関東大震災。「わたしの家は頑丈に作られていたので大した被害は受けなかったけれど、近所の道路や河川、橋はひどい惨状だった。
町会の役員ということもあって、被災した家や橋の修復に懸命に働いた。1週間野宿をしながら、町内の修復にあたった」という。腕に覚えがあるというものの、1週間も野宿しながら人のため、町のために尽くすというのは相当の“気概” がなければできないことだろう。
町の顔役的な存在だが、町会長は次男が引き継いだ格好で、いまは悠々自適の生活。最大の楽しみは月に1度、市が運営するごみを燃料にした温泉につかること。長寿の秘訣は酒(日本酒)という。お湯かお茶を3分ほど入れたコップに酒を注いで晩酌にするのが習慣だ。食べ物の好き嫌いはなく、次男のお嫁さんが作った料理をなんでも食べる。ごはんは茶碗に半分ほど。酒でカロリーをとっているから十分という。医者知らずで、ちょっと風邪をひいたぐらいでは病院に行かない。
来年の誕生日には数え年で100歳を迎える。潤間さんの誕生日は昭和天皇と同じというめでたい日でもあるので「薦被(こもかぶ)りの酒を振る舞おうかと、いまから一族でお祝いの方法を考えている」(功さん)と、楽しい計画を練っている。