ようこそ医薬・バイオ室へ:ES細胞って知ってますか
妻との会話。
「ES細胞って知ってる?」
「はあ、なんて? 日本語で言ってみて」
「胚性幹細胞」
「はあ? 中華料理は漢字を見れば大体察しがつくねんけどなあ」
確かに、いきなり「ES細胞」といって、分かる人は少ないようだ。
ESとは英語のEmbryonic Stemの頭文字で、受精卵が細胞分裂を始めて胎児になるまでを胚といい、その胚の中にある細胞を「胚性幹(ES)細胞」という。胎児になる部分なので、皮膚、神経、臓器などになる能力(全能性)を持っていて、「万能細胞」という時もある。このES細胞が、今もっともホットな生物・医学界の話題である。ちなみに、胚の外側の細胞は胎盤に成長していく。
一九九八年2月に、科学雑誌サイエンスにヒトES細胞の発見が発表された。ヒトES細胞研究のトップランナーは、アメリカのウイスコンシン大学、ジョンズ・ホプキンス大学、カリフォルニア大学サンフランシスコ校であったが、このうちウイスコンシン大学のトムソン氏が一足先にゴールに飛び込んだ瞬間であった。
当時、アメリカはヒト胚に関する研究には国費を助成しないという方針だったので、この三大学の研究はバイオベンチャー企業であるジェロン社の資金で行われた。つまり、ヒトES細胞の産業利用の権利をジェロン社が一手に獲得した瞬間でもあったのである。当然、カリフォルニア州メンロパークに本社を置くジェロン社の株は、前日の終値九・八七ドルから一気に一七・一八ドルと二倍に高騰し、その日だけで四一〇〇万株以上が売買されたという。
このES細胞は、増殖性と全能性を持つために、培養条件を見つけ出せれば、好きな時に好きなだけ、目的の臓器を作り出すことができる夢の細胞である。具体的には、いまは規制があって、日本でも不妊治療で余った受精卵しかその材料に使えないが、いずれは「クローン羊ドリー」を作ったクローン技術を応用して、核を抜いた卵に患者の体細胞の核を移植して、その患者のES細胞を作る。そうすれば、その患者と同じ遺伝子を持つ組織が作れるため、拒絶反応のない皮膚や臓器移植が可能になるわけである。糖尿病にはインュリン製造細胞、アルツハイマー病には神経細胞という形で、一度その患者のES細胞を樹立しておけば、病状に応じて必要な細胞や、臓器まで、まるで部品交換するように次々と修復することができる。
トムソン氏の発表は、ヒトES細胞が増殖して、マウスにその細胞を注射して奇形腫を作らせて、しばらく経た後、その奇形腫の中を調べると、腸上皮、骨、筋肉、神経上皮などが認められたという内容であった。つまり、このES細胞はいろいろな器官になる可能性があることを示したものであって、増殖したES細胞から利用できる特別な細胞や臓器を作ったわけではない。今後ES細胞をどうやって培養すれば、目的とする細胞や臓器が再現性よく作れるかの研究が焦点となって、実用化までにはまだかなりの年月が必要だろうというのが大方の見方である。
しかし、二一世紀の科学技術の柱は、IT(情報技術)とバイオテクノロジーであると標榜するアメリカ政府は、翌年「ヒト胚を作る研究には従来通り助成しないが、ヒト胚を利用する研究には助成する」とあっさりと転進した。つまり、国家戦略としてES細胞研究を加速して、一気に次代の金鉱脈を掌中に収めようと動き出したのである。
もっとも、脳死患者からの臓器移植がやっと七例となった日本としては、このES細胞研究は臓器不足解消の切り札となるだけに、力を入れるべきなのだが、どうもこの手の研究は農耕民族には苦手かもしれない。アメリカのベンチャー企業には、死体からいろいろな器官を切り出して研究用に販売する会社があったりと、狩猟民族ならではと関心するばかりなのである。
(新エネルギー・産業技術
総合開発機構 高橋 清)