百歳さんこんにちは:東京都・木本順司さん(101歳)
東京都江戸川区船堀の木本順司さん(101歳)は、浄土宗・法龍寺の14代目住職。自らを“老僧”といい、現在は長男の龍道さんが住職を継いでいる。大学時代は新聞部で活動した順司さん。新聞記者をめざしたことがある文筆家でもある。
◆わんぱくだった子ども時代
順司さんが同寺の住職になったのは昭和16年、31歳の時だった。「日中戦争が終わったその日に父が他界し、跡を継ぎました。当時は2町歩(6000坪)の土地を保有していましたが、戦時に没収されてしまいました」という。
小学校時代は、学校まで通うのに片道3時間かかった。「若い頃からよく歩いたことが健康を保ってきたのでしょう」と話す。
わんぱくな子どもだったようで、101歳のいまも、その面影が残っている。「その頃、3歳下の中里喜一さん(後の江戸川区長)とは家が近所で親戚付き合いの間柄。毎日のように一緒に遊びました。家の中で暴れ回って障子や襖を壊しては、自分たちで紙を貼って逃げました。彼の家でいたずらをすると私の家に逃げ、私の家でいたずらをすると彼の家に逃げて…。私の家は寺なので頂き物の菓子がいつもあり、彼はその菓子を目当てに遊びに来ていた節もあったようです」と、笑いながら当時をふり返る。
◆新聞記者をめざしたことも
その後は大正大学に進学。専門部から国文科に入り、史学科にも籍をおいた。「大学には7年間いました。国文科の時には大学新聞の発行にもたずさわったんですよ」。新聞記者を夢見ていた頃だ。
「文章を書くのが好きで、人の名前でよく雑誌などに記事を書きました」。いまでいうゴーストライターだ。サラリーマンの初任給が50円の時代に、ひと月35円の原稿料を稼いだという。
「栃木県出身の郡司信夫さん(後のボクシング評論家の草分け)と大学が一緒で、彼に頼まれてよく記事を書きましたが、原稿料は東京・麻布の飲み屋で2人で使い果たしました」。豪放磊落(らいらく)な性格なのだ。
その一方、純文学にも耽溺した。「22歳の時“万葉集入門”という解説書を出版しました。書店の説明によると3万冊売れたそうです」と、淡々と語る。
住職になってからも文筆活動は衰えなかった。「昭和49年から32年間、随筆集“月映(つきかげ)雑記”を年に1度、檀家のみなさんに差し上げていました。雑誌のタイトルは浄土宗開祖である法然上人の歌、“月影(つきかげ)のいたらぬ里はなけれども ながむる人のこころにぞすむ”から引用しました」。
月の光はまんべんなく平等に照らされるが、それを見るか見ないかは人の心のありようなので、ひととおりには考えられない–という意味だ。「雑誌の内容は宗教的な匂いがなく、私の日常の思いや考えをまとめた随筆でした」。
◆若い頃の草取りが健康のモト
いまも健康なのは「若い時によく歩いたことと、寺の草取りをよくやったから」。大学を卒業してから、東京府(当時)の中等学校体育協会に就職してスキーの指導者になったことも、健康維持につながっているようだ。
現在は、長男夫婦と孫たち6人と同居。食べ物の好き嫌いはなく、なんでもよく食べる健啖家。「前歯は3本しかありませんが、固いせんべいも食べます。以前、総入れ歯を作りましたが、使っていません」と口を開けて笑う。根っから明るい宗教家である。
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