百歳さんこんにちは:神奈川県・佐藤茂さん(99歳)

2012.05.10 202号 06面
面倒見の良い“親分肌”

面倒見の良い“親分肌”

塩分控えめ。好き嫌いせず何でも食べる

塩分控えめ。好き嫌いせず何でも食べる

 「不良少年で、ガキ大将でしたよ。学校は辞めさせられたようなものだね」と、笑顔で語る佐藤茂さん(99歳)。戦時には軍属として、満州、インドネシアで国のために尽くした。親分肌で面倒見が良く、いまでも現役時代の部下が毎月のように訪ねてくる。

 ◆向島の中学に入ったのが間違いのもと!?

 出身は、東京・向島。静岡県出身の父は東京・本所で雑貨商を営んでいた。「5年生(11歳)の時に関東大震災を経験しました。疎開先の静岡の中学に入学するか向島にするか迷い、1年遅れて向島の中学に入ったのが“つまずき”のもと(笑)」と振り返る。遊んでばかりで、学校にはろくに行かなかったそうだ。

 「16歳で高等商業学校に入りました。2年後、大学入学の直前に、満州に渡っていた中学時代の教師に呼び寄せられました。ガキ大将の私を見かねていたのでしょう。高等商業学校も中退し、ふらふらしていた私は、二つ返事で満鉄の子会社の社員になりました。ところが、私はそのことを両親に相談しなかったので“大学くらい出ておけ”とひどく怒られ、勘当扱いにされました」

 その両親のいさめもあって、満州に渡ってから旅順の工科大学に入学した。

 ◆戦時中は軍属としてアジア各国に赴任

 満州に渡って2年後に台湾で徴兵検査を受け、軍属に。主な任務は食料の徴収と連絡係で「現地の人を20~30人ほど集めて監督役をしました」。4年ほど駐留した。

 日本は1941(昭和16)年にイギリス・アメリカと戦争を開始し、茂さんはフィリピン、インドネシア、シンガポールを何度も往復した。「私の任務は機材を船で運ぶこと。部下は80人いました。米を現地の豆と交換して金持ちになりました」と、当時の生活を思い出して笑う。

 終戦はシンガポールで迎えた。「万年筆、指輪、時計はすべて取りあげられてしまいました。3万円(現在の3000万円に相当)蓄えていたのに軍票だったので、日本に持って来られなかったんです」と、少し残念そうに語る。

 ◆好き嫌いをせず、塩分は控えめに

 茂さんは帰国後、友人の紹介で日本軽金属に入社。32歳で8歳年下のふじ代さんと結婚した。その縁で、ふじ代さんの兄と合板(ベニヤ板)の会社を興した。「やっと会社を作り独立したけれど、資金が続かず3年で倒産してしまいました」。

 「会社が倒産してぶらぶらしていたら、戦時中シンガポールで知り合った陸軍大尉が、勤めている朝日生命を世話してくれたのです。大尉は、私の入社時は部長でしたが、後に副社長にまで出世した人。私自身は、60歳の定年退職時には支店長を任されていました。考えてみるとありがたい縁です」と、上司を懐かしむ。

 茂さんは現在、神奈川県横浜市のマンションに一人住まい。子どもには恵まれず、妻のふじ代さんは10年前に他界した。

 趣味を尋ねると「好きなのは女の人。女性との縁を感じる」とジョークまじりに話す。もちろん、ふじ代さんの出会いも大事な“縁”だった。

 面倒見が良い人柄。朝日生命時代の秘書が二人、毎月「おとうさん」と茂さんを慕って訪ねて来る。近所の人との付き合いも茂さんを飽きさせない。

 長寿の秘訣をたずねると、「戦争の体験から、その土地のものは何でも食べてきました。好き嫌いはありません。食事はよく噛んで、塩分を控えめにしています」。

 自らの人生を振り返って「暴れん坊を可愛がってくれた教師や上司に感謝しています。運が良かったのです」と語る。どこまでも謙虚だ。

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 百菜元気新聞編集部 電話03・6679・0212

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