忘れられぬ味(7)宇治園・大村武子社長 幼い日の「白いご飯」

農産加工 連載 2000.01.12 8634号 2面

先ず、私の「忘れられぬ味」は決して珍品でも高価なものでもないことを、冒頭にお断りしておきたいと思う。

幼い日の記憶ははるか遠くへとさかのぼり、わが家が父の親戚を頼って疎開をしたときのことである。それまでのわが家は部屋数も多く、当時の私にはよくわからなかったが、セーラー服の水兵さんが五人寝泊まりをしていて、家族のようであった。いよいよ疎開も近づいたある日、その水兵さん達が母を囲んで、あふれる涙を袖でぬぐいながら「お母さん!」と口々に呼びかけて泣いていた光景が、幼い私にはとても不思議で、つられて私も一緒に母の横で泣きじゃくっていたものだった。

さて、わが家の疎開は思わぬ終戦を迎えたにもかかわらず、それから何日もたってから実行されたのであった。すでにすっかり準備が整っていたのと、田舎では何でも食べ物が手に入るということからだったらしい。父はある会社の役員をしていたので同行できず、母と兄姉で田舎へと移った。

しかし現実は大違い、大地主の親戚には違いなかったが、私たちに食べ物を分けてくれるということは、全くなかった。あの頃はお金は役に立たなかったようで、母の着物や帯などと、そして今でもはっきり目に浮かぶ私の大好きなよそゆきのきれいな青いレースのワンピースなどが、何処かにもっていかれ、食べ物と交換されていった。

一家五人が一握りのお米と雑草を混ぜて作った雑炊で空腹をしのいでいたが、ある日一家揃って腹痛のため寝込んでしまった。それまで遠慮からか、母は現状を父に話していなかったらしく、かけつけてきた父がアルマイトのお弁当箱にぎっしりと詰まった「銀シャリ」をもってきてくれて私たちに食べさせてくれた。何のおかずも必要ではなかった。ただ、ただおいしかった。

あの頃の幼心にも辛かった経験を、もう二度としようとは思わないが、しかし今後どんな事態に遭遇しても、食べ物だけでは生き抜いて行ける自信をつけさせてもらったように思う。

そのようなことで、私の忘れられぬ味は「白いご飯」である。

今も私は三度の食事はお米のご飯。あたたかいご飯とともに幸せをかみしめている。

(宇治園社長)

日本食糧新聞の第8634号(2000年1月12日付)の紙面

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