忘れられぬ味(69)宝幸水産・沼邊義秋社長「鯨の刺身」
終戦からちょうど一年後の昭和21年8月に、両親とわれら子供四人が旧満州(現中国東北部)から引揚げ、博多港に降り立った。両親は終戦から内地引揚げまでの記録を綴っており、それを読むと、正にドラマを見ているような信じ難い経験をしているが、当時四歳八ヵ月の幼児であった私は、博多に着くまでのことは断片的にしか記憶にない。
中国の港を出港して博多で下船するまでの数日間の長い船旅では、食糧事情が厳しかったこともあり支給される主食は乾パンで、毎日乾パンで飢えを凌ぐ状態であった。恐らく乾パン以外の食事もしたのだろうが、引揚げ船内の乾パンの印象が強烈で他の食べ物の記憶がない。
博多から母の実家のある山形の田舎に向かうこととなり、満員列車で二日をかけて山形に入った。山形駅で左沢線に乗り換え、一つ目の北山形駅に着いた時、突然白い割烹着を着た婦人会の人が数人乗り込んできて、「皆さんご苦労様でした。どうぞ召し上がってください」と、われわれ引揚者に差し出したのが白米のおにぎりとナスの漬物だった。われわれ引揚者が乗り込んでいる列車が何らかの組織を通じて山形の婦人会に連絡が入り、われわれに心のこもった差し入れをしてくれたのであった。その美味しいこと。四歳八ヵ月の舌にその美味しさは擦り込まれ、還暦を迎える今でも明確にその味は残っている。
昭和42年頃、前職の日本長期信用銀行(現、新生銀行)で水産各社への融資を担当していた。その当時は、未だ捕鯨操業が華やかなりし頃で、某社の捕鯨船団が帰港するとナガス鯨の尾の身のブロックが数個入った段ボール箱が届けられ、私も担当者の役得でブロック一個をありがたくいただいて帰る。それを、生姜醤油につけて食べるとジワーと脂が口中に広がる。しかも決して生臭くもしつこくもなく上品な味、おそらくナガス鯨ゆえの美味しさなのだろう。この贅沢さは、現在のような捕鯨事情ではもはや実現不可能だろう。
その時は、家内と二人暮らしで、毎晩刺身で食べても食べきれず、色も黒みかかってきたのでステーキにしたところが、あっという間に脂が溶け出して半分くらいになったうえ、脂を出し切った鯨肉は繊維質状のスジ肉となり、何とももったいないことをしたのであった。
(宝幸水産(株)社長)
日本食糧新聞の第8901号(2001年9月24日付)の紙面
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