伝統を守り新業態に挑戦 流れを先取りする多業態チェーン 魅力の13業態「不二家」
明治43年、横浜元町にモダンなケーキを売る洋菓子店が開店した。大正11年には横浜伊勢佐木町に支店を出し、余勢で翌年には銀座に出店。順風満帆かと思われた銀座店出店二七日目に関東大震災。一日にして三店舗全て廃虚となる。不二家八七年の歴史は挫折から今日の隆盛を見る。同じく、大正13年神田須田町にハイカラなカツレツやライスカレーが食べられる「ウマイ、ヤスイ、ハヤイ」の“簡易洋食”「須田町食堂」が開店した。翌14年には四店舗、戦中は軍需工場の給食に活路を求め、一般食堂と併せて八九ヵ所で営業活動を行うに至るが戦災で店舗を次々に失い、20年8月にかろうじて残ったのは六店舗を数えるのみ。聚楽の歴史にもゼロからの再出発がある。現在、外食産業は生みの苦しみを味わっている。戦後、マスに照準を合わせて急成長してきたところで、突然消費者に“ノー”を宣告された。いかにソーシャルに照準を転換するかがさらなる成長の分かれ目。戦前からの伝統ある外食企業は多業態を抱えている。今、ソーシャルが標榜されてきてにわかに多業態が魅力を増してきた。一人十色の飲食動機に対応できるからである。二企業を通じて改めて外食産業の奥深さを検証してみたい。
「創意と工夫」をモットーに洋行体験を持つ創業者藤井林右衛門はさまざまなメニューを日本に広めた。大正13年、日本初の天然果汁入りソーダ水が横浜にお目見え。しかもコカコーラまで。会計はレジで自己申告。昭和12年のメニューにはコーヒー一五銭、パフェー四〇銭、アイスクリーム・サンデー三〇銭、コカコーラ二〇銭とある。
今では当たり前のメニューであるが、不二家はこれらを創業間もない大正時代から出している。なかでもアイスクリーム・サンデーとアイスクリーム・ソーダは不二家が元祖。新しいものを積極的に取り入れる社風が垣間見える。
昭和25年にはリング型のアメリカン・ドーナツを真っ先に製造・販売。上等の材料を使うだけでなく、26年以降は統制解除になった砂糖を惜しげもなく振りかけ、機械がドーナツを揚げる様子を店頭でいかにもおいしそうに見せた。土曜日は二割引の一個八円で売る。
商品のハイカラさだけでなく高品質高サービスで普及啓蒙に努め、日本のドーナツ発信地となっている。
昭和38年には不二家ファミリー・チェーンの第一号店が出店。フランチャイズという言葉がまだ知られていない時期にすでに導入。外食産業元年といわれる万博の45年には一〇〇店舗を超えた規模になっている。
現在、不二家は商事営業本部、チェーン営業本部、不動産事業本部、生産本部の四部門からなる。なかでも特にレストランやケーキショップを運営するチェーン事業は全国レベルで拡大、一〇〇〇店舗を超えている。
外食としては▽ピッツアとスパゲティー専門店「カプリ」▽サーティワンアイスクリーム▽フローズンヨーグルトショップ「シーガル」▽イタリアンレストラン&ピッツェリア「ラ・フォンテヴィーニ」▽エスニック料理が特徴のバー&レストラン「ZANI(ザニ)」▽イタリアンレストラン「effe(エッフェ)」▽無国籍料理が特徴のレストラン&バー「シルバーパレット」▽調理品とティーサロン併設の「ダロワイヨ」▽ディナー型カジュアルレストラン「ブロンズパロット」▽ブロンズパロットのダウンタウン型カジュアルレストラン「ブラスパロット」▽アメリカンスタイルの気軽なパブ「ヘンリーアフリカ」の一三業態を持っている。
この春、飲食部門活性化対策として銀座六丁目のレストランを「不二家洋菓子&カフェ」にリニューアルオープンした。
気軽に入れることを第一にメニュー単価も全品一五〇円から二〇〇円程度値下げし、一〇代後半から三〇歳代の女性をターゲットにした。
メニューアイテムはサンドイッチ、サラダ、季節のデザート、ケーキ(五〇〇円から)、カフェ(四五〇円)、ティー、ソーダ(五〇〇円)、パフェ(六〇〇円)、クープ(五五〇円)など。今秋以降約一五〇店を対象に順次転換していく。
紅茶やハーブティー、カフェカプチーノ、カフェマキアート、黒すぐりのパフェなどオシャレと健康を意識したカフェメニューで客単価の低下を回転数で補う公算だ。今後も時代の流れを先取りする商品開発、消費者のライフスタイルに合わせたバラエティー豊かなショップ作りをめざしていく。