業界人の人生劇場:早野商事・波奈グループ代表 早野友宏氏(上)
「一寸先はやみだ」なんて言われたら、途端に気がめいってしまう。けれども、うじうじしたって仕様がない、先へ進むだけ。そのうち何とかなる、って、無理やり幸運を自分へ引き寄せる人も世の中にはいるもんだ。早野友宏社長も、そんな、強引に人生を切り開いて来た一人だろう。「常に、危機感を抱いている」なんて言われても、その柔和な笑顔からはピンとこないが、彼は、まさしく、どんな厚い氷もバリバリ割って進む「砕氷船」だ。
(聞き手・洛遥)
高校在学中に「おれはサラリーマンなんか、向いてない」って、気付いてましたね。それで、将来どうするかって考え、食い物屋、それも、すし屋をやろう、ってとこまでは、すんなり行き着きました。高校卒業後、洋品屋のアルバイトをやってて「商売とは何たるものか」ぐらいは実感できていたので、食の世界で、今で言う「起業家」となって、ひと暴れしようと考えたのも、自然な成り行きだったかもしれません。
また、郷里の館山が、食べ物のおいしい、当時としては、伊豆・箱根と並ぶ新婚旅行のメッカだったという環境も、私の人生の転轍機(てんてつき)となり得たかもしれないですね。
すし握れぬまますい店開業
とにかく、事は決まった。だが、さて、困った。すしの一つも握れない私が、うまいすし屋があまた軒を並べる館山で開業しても、しっぽを巻いて逃げ出すのは火を見るよりも明らか。相談相手には皆こう言われて、猛反対されましたよ。
しかし、私には一つだけ、勝算があった。実は、当時、館山のすし屋は確かにうまいが、店の態度があんまり良くない、という風聞が広まっていた。よし、それでは、お客様がおいしくすしを食べて満足して帰れる店をつくれば、やれないことはない、そう考えていたんです。無謀と言われようが、もう、動物的感に頼るしかない。しかし、自信はありましたよ。
次々すし職人に逃げられる
とは言え、私より一回り以上年上の職人を雇って、地元館山に六坪の「波奈ずし」を開業。私が、「お客様がおいしくすしを食べて満足して帰れる店」にするんだ、といろいろ言っても、そこはプライドの高い職人。「すし一つ握れん若造が」って顔されて、すぐやめてしまう。まあ、客の回転率より、職人の回転率の方が、はるかに高かったんじゃないですかね。さすがに、私も考えまして、すしの握り方を習おうと決めるまで、そう、時間はかかりませんでした。
それで、修業しつつの再スタート。またもや、職人の入れ代わり。「あのすし屋は、職人に逃げられると、修業途上の経営者自らすしを握るそうだ。お試しものだな」なんて、陰口たたかれたり。まあ、面かじと取りかじのアンバランスな船出でしたね。それでも、今の私があるのは「お客様がおいしくすしを食べて満足して帰れる店」という「羅針盤」だけは持ち続けたからだと、自負しています。
客の花街ことばをいさめる
ある日のこと。大島紬を粋に着こなした年配の男性が芸者さん二人同伴で、ふらりと私の店へ現れ、カウンターのど真ん中に腰を据えたんです。その“だんな”いわく、「出花をくれ」。
ギョッとしましたよ。「出花」ってなんだ? いわゆる花柳界用語なんて全く知らない私でしたから。結局、だんなは私に出花の説明をして、ぶ然と店を後にしました。悔しかったですね。
数日後、未だ苦々しさも覚めやらぬころ、また来たんですよ、例のだんなが。私はもう腹をくくって言いました。「あいすみません。ここはすし屋でございます。花柳のちまたならばともかく、お茶を所望ならば出花などとおっしゃらず、お茶とストレートにご注文ください」と。
そしたら、意外や意外。そのだんな、「気に入ったぞ、このへぼすし屋。困ったことがあったら、いつでも相談に来い」と、その日は上機嫌で帰られました。
なんとか二年がたち、事業を加速させる余裕も出始めた矢先、近くに三六坪ほどの土地が空き、そこへの移転計画を思い立ちました。しかし、銀行は担保か保証人が必要だと冷たい。当てのない私が途方にくれていたころ、ふと思い浮かんだのが、あのだんなの顔でした。
正面攻撃じゃ首を縦には振るまいと、私なりの殺し文句を考え、早速だんなのもとへ赴きました。殺し文句は見事功を奏し、だんなは保証人請け負いを快諾して下さったのです。
こうして、「波奈ずし」の事業は大きく前進するとともに、このだんなの好意と、出会いの大切さに涙しました。
言ってみれば、二年間の奮闘が、今の成功の原点でしょうね。「お客様がおいしくすしを食べて満足して帰れる店」という羅針盤を持ち続け、出会いを大切にしたことで、ここまで来れたんでしょう。突進あるのみですよ。
(次号に続く)
◆早野商事(株)/昭和53年6月、資本金二五〇万円(57年一〇〇〇万円へ増資)で千葉市要町に設立。ルーツは40年、館山市に六坪のスペースで開店した「波奈ずし」。51年、新鮮な海の幸をふんだんに使った日本料理とすしが売り物の「活味波奈(いきあじはな)」を千葉市内に開店。以降、着実に業務を拡張。現在従業員七〇〇人、年商五四億円の規模に成長した。同社はテークアウトすし店「太助ずし」、回転ずし「ハミータ」(FC)、とんかつ「かつ波奈」、とり料理専門店「とり屋一億」も同時に手掛け、多方面な業種展開で知られる。昨年、5月には「ハミータ」と(株)吉野家ディー・アンド・シーとの合弁で、(株)「ハミータ・コーポレーション」を設立し、回転ずし部門が独立。今後、ますますの成長が期待される。
プロフィル
◆昭和40年館山市に六坪のスペースで「波奈ずし」を開店。「お客様が、その店で満足して帰られたかどうかは、帰り際の扉の閉め方でわかる」と言う早野氏。高校卒業当初は、シナリオライターを目指していたという氏の才能は、今でも時々デッサンの筆をとったり、メニュー撮影をプロ並の腕でこなしてしまう、多才振りに受け継がれている。また、氏が今凝っているのは、アユ釣り。清流を求めて、休日には栃木県にまで足を伸ばす。カッとなりやすいが冷めるのも早いという、後腐れしない性格は、社員に大いに好かれるところであろう。館山市出身、五六歳。