元祖・食道園が歩んだ焼き肉半世紀

1999.08.02 184号 21面

焼き肉人気は経営者の新しい試みや挑戦もあってうなぎ上り。子供から年寄りまで、多くの人の心を完全につかんだといえよう。その影にはたくさんの人の尽力があったが、特に「食道園」の偉大な功績を見逃すことはできない。

焼き肉の元祖ともいわれる「食道園」を築いた先代社長、江崎光雄氏。後を継いだ現社長の江崎政雄氏は食道園の地位を不動のものにしながらも、全国焼肉協会の会長として業界の発展に力を注いできた第一人者である。

今回、江崎社長にインタビューをお願いし、本社に訪ねることにした。そこは飲食店が連なり大変なにぎわいを見せる大阪・宗右衛門町。堂々とした存在感で通りに並ぶ新しい店を圧しているかに見える高い建物が、老舗の風格をあらわす「食道園」だ。

さっそくエレベーターで六階まで上り、社長にお会いする。インタビューの内容は、焼き肉の歴史の一端を担ってきた「食道園」の歩みについて。きっかけは、以前お会いした時に聞いた、一冊の本だった。

それは、一九八三年に出版された『長い旅』=写真。江崎社長の母親である江崎光子さんが前年に亡くなった夫の光雄氏の一周忌を記念して著したもの。ともに過ごした半生が素直な文章で書かれている。経営者の妻の目で、また母の目で見た焼き肉店の暮らしが生き生きと描かれ、優しい気持ちにさせてくれる内容だ。当時の焼き肉店を知る資料としても貴重な一冊である。さらに江崎社長に当時の様子を補足してもらうことにした。

一九四六年に、大阪・千日前に「食道園」は開店。「元祖 焼肉冷麺」の看板をかけた店の間口は二間足らず。七輪で肉を焼きはじめると煙とともにおいしいにおいがたちこめ、なかなか肉が口に入らない時代にあって通りがかりの人はみな生つばを飲み込んだ。当時の主力メニューは「平壌冷麺」。先代の光雄氏は奥の調理場に立ち、注文を受けてからそば粉と片栗粉を練り麺を仕上げたという。今でもこの作り方を守り継承する「食道園」の冷麺は、天下一品との評価も高い。

家族は妻の光子さんと六人の子供の八人。先代はほとんど眠らずに一生懸命働いたがそれでも生活は苦しかった。冷麺づくりはどこにもひけをとらないこだわりがあったが、昼食メニューだったため、そのうち売上げに限界を感じはじめる。そして、夜に焼き肉を食べながら酒やビールを飲んでもらい、売上げを増やすことを考えついた。

当時、肉はなかなか手に入らなかったが、光雄氏の商才とバイタリティーはついに仕入れ先の肉屋を開拓。七輪に網を乗せて肉を焼き、たれにつけて食べるという、在日韓国・朝鮮人の庶民生活の中にはあっても、営業としてはどこもやっていない今の焼き肉スタイルを初めて商売に取り入れた。それが看板に「元祖」と記したゆえんである。

「食道園」の焼き肉は、それ以来、人気となり、人気のプロレスラー力道山らが必ず立ち寄る店にまでなり、次第に「焼肉 食道園」の名は広まっていった。「美空ひばりの楽屋にカルビスープやキムチを運んだのを思い出します」と政雄社長は話す。煙の処理には自家製の換気フードを開発するなど、さまざまな努力も実り、すき焼き、しゃぶしゃぶ、ステーキなどと並んで、焼き肉が肉の代表料理となるのに、それからさほど時間はたっていない。

一九六七年、都市整備計画で千日前を立ち退かなければならなくなった。

光雄氏は「一部の人しか知らないおいしい焼き肉料理を女性や子供にも食べてもらいたい一心で、ホルモン焼きのイメージを一掃し、社交場としても通用する店をミナミの一等地、宗右衛門町で実現させようとした」(『長い旅』より)。

そして翌年願いはかない、六階建ての焼き肉ビルが誕生。続いて北新地へ、さらに、と店を増やしてゆきやがて「食道園」の名前は焼き肉店の代名詞のように語られてゆくのである。

「大阪は焼き肉の発祥地。先代たちが開拓、築き上げた焼き肉料理をわれわれがもっと勉強し、もっと広げていかなければならない」と語る江崎政雄社長は、業界の発展に力を尽くすことが二代目の使命と考える。

それが、両親である先代の光雄氏と光子さんへの感謝の気持ちと思っている。

取材を終え外に出ると、ちらほらとネオンが輝きはじめていた。「焼き肉」の文字がいたるところで光る。先代が亡くなって一七年目、競争は激しくなるばかりだが、もしまだ元気でいたらこの状況をどう見るだろうか。聞いてみたい気がした。

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