シェフと60分:イタリア料理「ラ・ゴーラ」オーナーシェフ・澤口知之さん
ほとんどのメニューにたっぷりの野菜が盛られている。これは意識して時代の流れであるヘルシー志向を追ってのことではない。
かつてアメリカでは、大量に収穫されるオレンジをどう大量消費させるかでジュースという食文化が生まれた。
イタリアではこれが野菜となる。「これだけ食べないとイタリア料理のパワーが出ない」からだ。
野菜単体では難しいが、ほかの食材と組み合わせたり、調理の仕方で一が五倍の量となって食べられている。
例えばルッコラ。これは香草と野菜の中間にある品種。香りもあればパクパク食べる野菜の特性も兼ね備え持ち、日本では大根、白菜と同じ存在。ラ・ゴーラでは、この野菜を惜しみなく皿の上に散りばめている。ヘルシー志向をうたっているのではなく、結果として野菜をふんだんに使うことになったという。
「塩や砂糖などを極端に控えたり、今の日本の不健康なまでの健康志向活動は、逆に健康な体に病んだ精神を宿らせているという感じでおかしい」
「私は、たばこがおいしく吸えるから今日も健康という発想法」。根本には、体が欲しているものを自然に取り入れ、おいしく食べるのが医食同源とみるからだ。
ちなみにイタリアで北から南へと料理放浪していた時代、名前を覚えられるまでは「シガレット」の呼び名をつけられたほどのヘビースモーカーの弁である。
地方料理で成り立つイタリア料理は、組み合わせの妙でさまざまな味の展開が図れる。これを定着させていくのが澤口シェフらの世代に課せられた義務だが、どう味を構成させるかを、秩序だって教える場がないのを残念がる。
これは本場イタリアでさえも同じ。料理人の学校では、シチリア料理、トスカーナ料理など、それぞれの地方料理の味の組み立て方はカリキュラムとしてあるが、これを基本にしてどう組み合わせていくかとなると、皆無という。 「ここらをつめていけば、その土地での組み合わせもさることながら、他の地方との組み合わせで新しいものができる。ただ、よい条件での結婚が必ずしもよい結婚につながるとはかぎらないが」
この組み合わせの妙も、基本を知ってこそできる技である。イタリアではイタリア人がやるから正解。日本人では、どうしてもイタリア人ならどうなんだろうとワンステップおいてしまう不自然さがあるが、限りなくこれに近づこうと挑戦するのが澤口流。
帰国当初は反射的に口をついて出ていたイタリア語も、「今では、あれほど書きまくっていたレシピを見ても忘れていることが多い」。自戒してメニューだけは、イタリア語で考えるよう生活習慣づけている。
イタリアでの約七年間の料理放浪期間中、実際の地方料理を知るべく地元料理人とともにつぶさに訪ね、見て確かめて歩く。こうして地方に行けば行くほど、日本へ帰る気持ちは薄らいでいった。
ところが、ある日見たベトナム戦争後もカンボジア、タイに残っている米兵のインタビューニュースで「海外生活者は永遠の子供」という言葉にいたく考えさせられ帰国を決意する。
帰国後、店をどう展開するか。限りなくフレンチに近づいたイタリアン、限りなく日本に近づいたイタリアンなど、料理人により表現法は異なっていいだろう。「ただ、イタリアイタリアした料理をみんなが楽しめる味で提供したい」という方向性だけは崩したくなかった。
万人がおいしいと感じる味の平均値。答えを出す算式をどう組み立てるか。
日本でもイタリアと同じで味の基準値は地方によっても異なり、個人差がある。最大公約数の味と最小公倍数の味との掛け合わせの答、かつて学んだイタリア地方料理の組み合わせ法を、澤口流に置き換えていく。
老若男女みんなが親しめるナスのグラタン、トマトソーススパゲティなどの定番メニューは必ず置く。そのほかさし込みメニュー、週替わりで独自性を打ち出す。
結果はどうか。「なぜかガツガツ食べる血の気の多い男性客が多いが、イタリア人が来て、なんだこの店はといわれるような店にはしたくない」という気概は人一倍強い。
◆プロフィル
一九五八年鹿児島県生まれ。父親の転勤で東京、青森、千葉に移り住む。学生時代は剣道に励むが、「澤口百万石」の異名をとるほどの大食いだった。イタリア料理に進むハッキリした動機はなかったが、七〇年代の寺山修司の影響を受け、チュニジアに行き、現地のジャズバーでトランペットを吹く日本人に遭遇したこと、ベトナム戦争終結後の横須賀へ行ったり、万博で各国料理を見たことなどからいつか海外、アメリカへと夢をふくらます。
いざアメリカへ行く段になり、料理教室を開講する母親の「これからはイタリア料理。行くなら西回りで行きなさい」の一言に従い、三六時間かかって到着したのがフィレンツェ。予定を変更しイタリアのホテル学校へ入るが、あこがれのアメリカへの夢は捨てきれず、一年を経ずしてロサンゼルスへ。
ホテル内レストラン、街場のレストランなどで働くが、一つのことに集中しないと中途半端に終わるよという友人の警告を受け、再びイタリアへ。イタリアでは北から南へ、ミシュランの星つきホテルから屋台にまで精力的に料理放浪をする。
約七年の滞在の後、一九九二年に帰国。翌年、六本木にバールとトラットリアの二つの顔を持つ「ラ・ゴーラ」をオープン、現在に至る。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一













