シェフと60分 レストラン「クラブNYX」オーナーシェフ・宮本雅彦氏

1995.05.15 76号 9面

バブル崩壊のあおりを受け、フランス料理店も荒波にもまれることになった。

「われわれ三〇~四〇歳の世代は個人主義でやって来た世代」だったが、このままでは業界が駄目になるという危機感から大同団結、四三人の若きシェフが集まり、「クラブミストラル」を発足させた。

「同じ年代にフランスに行った人達で、親方もいないし、現役でバリバリ働き、現場の事情をよく知っているわれわれの世代が集まれば、何かできるのではないか」と、発言権のない既存の会に属さず、あえて新しい会を作った。

「会の名前を借りた個人の集まりです」という。

今は一生懸命頑張ったからといって、必ずしも花が咲く時代ではない。

修業時代は地道にコツコツやっていれば良いが、管理する立場に立った場合、これでは生きていけない。情報交換、技術交換の場として、また、時には他のジャンルとの料理競演というパフォーマンスの場として会の存在価値を大きくしたいという。

「料理人は我の強い人が多い。自分の個性を認めて欲しいという気持ちがぶつかり合った時、新しいモノが生まれる」

テレビの影響から料理人志望者が増えているが、基礎作りはそう簡単にはできない。「われわれが一〇年、二〇年経った時、現役ではやっていけない。その時、次の世代にどうつなげるか」に憂慮する。若い人には、一〇〇年前のエスコフィエの時代背景などを学んで欲しいという。

「料理人は基礎が大切。時代がどんどん変わる中、基礎ができていないと、結局何をやっているのかわからなくなってしまう」

料理の道に入って一六年。一〇年を過ぎると面白くなると同時に、難しくなったという。基礎をやらずして何の個性も生まれず、目指すものも生まれない。

「基礎を勉強したからこそ今があり、宮本料理がある」といい切る。

筑地に近い立地にあることから和食の食材もよく使うが、こうしたクロスオーバーしたメニューも、基礎がないと一過性のものとして終わる。

「都市では、世の中の流れが速い。その中で、自分を見出し主張していくのは並大抵のことではない。そのためにも基礎が必要」と強調する。

これからは、カリテ・プリ(適正価格)の時代という。

一昔前は、フランスに行けばシェフになれたが、今はフランスに行くのが当たり前。みんな一つ星、二つ星を目指し、そこだけを勉強して来る。

「一〇〇〇円のフランス料理には一〇〇〇円なりのおいしさがある。お客がTPOで使いわけをしているのに的確に対応する才覚」が、これからの料理人には求められる。

それには、おいしいものを食べることを勧める。そして、素材と会話をし、熟知することが必要ともいう。野菜にしろ魚にしろ、生命力を極限まで生かすには、熟知すること、つまり愛情をもって食材に立ち向かうことだ。

レシピ通りに作っても1+1=2にはいかないのが常。同じ食材でも、その日その日で状態は変わり、周りの状況によっても違ってくる。こうした食材には、「愛情をもってあたれば、返ってきます」。長年生きとし生けるものを直視して来た者ならではの重味を持つ言葉だ。

若いシェフには、まだ世の中からかけ離れた所で生きているという感じがする。

「これからは、料理を作るだけでなく、会社の運営、企画力が要求され、営業に行くくらいの気持ちがないと生きていけない」。今やシェフにも世間、店からと要求はどんどん多くなり、生半可では勤まらない厳しい現実を説く。

若い料理人には、月四~五回の休日があれば、うち一日は外のレストランに行かせるという。そうすることで自分のレストランを客観的に見ることができる。

「これも、すべて会を結成したことで、横の繋がりができ、スムーズになりました」

「はっきりいって、今の調理師学校を卒業しても何も知っていない」と、調理師学校の教育のあり方を批判する。

高校を卒業して何も知らずに入学して来た生徒に、現場教育をさせず、就職させたのでは、「せっかく良い素材を持っていても、十分な下準備もなく、アレコレ一度にいろいろなものが来て、パニックとなり辞めて行く」

良いモノを持っていた若者が辞めて行き、残念だと思ったことが幾度となくあったと嘆く。

「われわれの時代は、やってやるという気持ちが強かった。才能の無い者でも、石をも通すくらいの強い意志を持っていました」と自らが修業していた時代を語りながらも、意識の違う今の時代だからこそ、新しい現場研修が求められると力説。

「生徒達も現場の話を聞きたがっている」。あまりに現場とかけ離れた学校教育に対し、「かえって学校に入らず直接現場に入ったほうが良い」とまでいい切る。

会の結成を機に、料理の講師ではなく、現場について話したいと、学校と折衝中だ。

文   上田喜子

カメラ 岡安秀一

一九六一年福岡県飯塚市に生まれる。一九七九年地元福岡県内で料理人としてスタートしたのが一七歳。一九八二年故郷を離れ神戸ドゥールドールにオープン時より入社し、六年間勤める。

一九八八年本場のフランス料理を学ぶため渡仏。一九九一年の帰国までの三年間に、「ジョルジュ・ブラン」「ミッシェル・ゲラール」など三つ星レストランで修業。一九九三年2月、クラブNYXをオープン、今年4月には、若きシェフの会「クラブミストラル」発足に伴い初代会長に選出される。

良い料理は一人ではできない、おいしいものを作りたいという気持ちが大切。この気持ちを何十年も持続することには気が滅入るが、「今日はおいしかったヨ」の一言に勇気づけられるという。

一回一回で消えて行く料理を「食文化として伝えていきたい」と、大きな目に気迫を込めて語る。

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