シェフと60分 成増飯店代表取締役・滝澤英男氏 巨匠・求道者はいらない
「“愛と誠意”が私の哲学です」、中国料理一筋に四五年、昨秋、環境衛生功労者として厚生大臣賞に輝いた滝澤英男さん。朴訥な口調と表情のこの人がこういうとなんの衒(てら)いもなしにその真情がこちらに伝わってくる。
“桃李(とうり)言わざれども、下自ら蹊(けい)をなす”と史記にある。桃や李(すもも)は何も言わないが、花や実にひかれる人が多く集まるので樹の下に自然と小径(みち)ができる……つまり徳望の人は自ら呼びかけなくとも、その徳を慕って人々が集まってくる、という意味だ。
東京都中華料理環境衛生組合常務理事(総務部長)の今日まで、四五年もの長い間、“中国料理”の研究習得と、数え切れない数の子弟を育成してきた滝澤さんの人柄がしのばれる言葉だ。
“一億総グルメ時代”といわれるようになって久しい。ぞくぞくと料理の本が出版され、テレビの番組にもグルメ番組や料理コンテストシリーズまで登場する。料理人は、技術者のレベルではなく、匠、はては天才肌の芸術家たるべく求められ、それぞれもまた窮極の人たらんとし、味の世界は時として、特殊な求道者の世界と見まごうほどに“現実”から遊離していった。滝澤さんはこういう。
「なんの世界でもそうでしょうが、料理人にも種々の型がある。私らはあくまでも経営者の視点、お客さまとの接点から中国料理を“合理的な料理”として追求しているのです」
料理人の腕、技術重視の料理ならば、キュウリ一本でも真ん中のおいしい部分だけを使い、残りは捨ててもかまわないだろうが、お客の立場から考えるとそれは合理的な料理とはいえないというのだ。
バブル経済全盛期には、ホテルの結婚披露宴のコース料理は、三万円も取られた。同じコースがいまでは半額で食べられる。滝澤さんはこの手法を採らない。
「考えてみると私はとても人に恵まれています。中学卒で上京して就職した先が、上野の『いろは食堂』(いろは寿司前身)。初代目崎社長に可愛がられ、中華に回されたのがこの道に入るきっかけです」
一五歳で新潟と長野の県境にほど近い小千谷町吉谷村から兄弟が多いから商売でも覚えて独立しようと上京した滝澤少年には、すしよりも中華の方が性格的にも合っていたという。
なかでも滝澤さんが、恵まれていたというその最たる点は、上京後一〇年ほどして修業に出歩いた頃、当時「中国料理の“三傑”と謳われた皇家飯店の氾さん、新雅飯店の陳さん、東華園の周さんの三人から、それぞれ中国料理の真髄を教わることができた」ということだ。この三人のうち二人に習った人は多いが全員に薫陶を受けた料理人は、ほとんどいない。
この三傑から受継いだ、技術と他人を「思いやる心」をベースに滝澤さんの研鑽が積み上げられてきた。
宮廷の伝統を受け継ぐ北京料理、炒め物の多い上海料理、辛味の効いた四川料理、甘味ののった広東料理の中国四大料理。この四系統の料理すべてを極めた人だけが“中国料理”の達人と呼ばれるが、滝澤英男さんは、数少ないその達人なのだ。
その一方、都中華組合の重鎮として経営指導など多忙な“公人”の日を送っている。中国料理の研究開発と業界の振興一筋に四五年。この間、滝澤さんが育てた弟子や友人らと“滝澤会”なる懇親を兼ねた研究会も約半世紀になろうとしている。
「常日頃、弟子たちには“どんな時も基礎を忘れるな”と教えています。基礎をしっかり身につけていれば行き詰まっても早く再スタートを切ることができ、壁を越えられる」という滝澤さんは、中国料理こそ世界一の料理だと言い切る。
メニュー、材料の多様性もそうだが、言い古された感がありながら今日なお、新しい響きと意味づけを失っていない“医食同源”という中国料理の不変の哲学が好きだからである。
「中華料理は、中国には古来、医師が少なく高価な診療代のため庶民は体調を崩したり病気になっても簡単に医師にかかることはできなかった。そこからこの考え方が生まれ、四〇〇〇年の歴史のなかで定着してきた。一応の約束ごとはあるものの、洋食や和食のように“特別のマナー”がない。大皿に盛られた料理を幾人もで囲み、それぞれの体調、食欲、好みに合わせて同じ箸を使って、小皿に分け取って食べる。自由でこの打ち解けた食べ方がいい」
ゆっくり自らに言い聞かせるように話す滝澤さんの頬は、老酒のせいばかりでなく少し朱をさし、輝いている。「とても還暦にはみえませんね」と水を向けると‐‐
「まだ娘が筑波大付属中学の二年と小さいのでまだまだ頑張りませんと、ね。今後も日本人に合った中国料理を創り続けたい」とほほえんだ。
最近では、でき上がった料理の色合いをみるだけで味やでき具合を知覚できる域に到達した滝澤さん。いまやラーメンとともに中華料理店のメニューにデンと居すわり続けている「タンメン」。これが、四〇年前滝澤氏(とグループ)らによって開発されたことはほとんど知られていない。中国料理にない日本独自の味だ。同氏の日本人に合った中華料理づくりは、まだまだ続きそうだ‐‐。
文 前田宏一
カメラ 岡安秀一
昭和11年、新潟県・小千谷町に生まれる。五人兄弟の三男のため商人で身を起てようと中卒で上京。いろは寿司の前身・いろは食堂の中華部に一五歳で就職。以来、日本に合った味付けの中華料理を追求して四五年。
この間、中国料理の三傑と謳われた氾、陳、周三氏から教わるという幸運に恵まれ、中国料理の真髄を極めた数少ない達人である。
四大中国料理のすべてを極め、料理の色をみただけでその味を知覚できるといわれる滝澤氏は、昨年10月、中華料理環境衛生に貢献した業績を認められ厚生大臣賞を授与された。
中国料理は世界一だ、と言い切る同氏は、流行を採り入れながらも一部のグルメ志向ではなく、日本人万人に合った“合理的な中国料理”をなお求め続けるという。現東京都中華料理環境衛生同業組合常務理事(総務部長)。