2月2日。今日は麩の日
2月2日は協同組合全国製麩工業会が制定した麩の日。日付は語呂合わせに由来する。
門外不出だった麩は江戸時代に広まった
江戸時代、寺から門外不出であった麩が全国に広まっていくこととなる。都が浪花とともに「上方」とよばれ、江戸と同様に情報の集積地であったこともあ り、地方からの奉公人や見習い、総本山での修行僧が麩の製法をこの地で覚え、各々の郷に持ち帰り、その土地の気候や風土に合わせた製法が地域特色のある麩を作ることになる。
また、江戸時代の食に関する書物の中に「麩」に関する内容が見られることからも、この時代に麩が庶民一般に広まったのは明らかである。寛政12(1800)年には、江戸幕府が西洋の小麦と、その生産法を手に入れ、試産し始め、さらに安政6(1859)年には開港とともに初めて「精白小麦粉」が日本に輸入されることになる。これまで使用していた挽き割小麦は、色も黒く、水車で石臼を回して小麦を挽いていたため、粒子も粗く、精白小麦粉とは全く別物であっ た。したがって、この時代を境に現代の麩への道が大きく開かれたといえる。
精白小麦粉が使用される明治時代に入ってからは、現在の焼麩が生産されるようになり、「すきやき」や「味噌汁」、「酢の物」などの材料に使用されたことや、国内産の精白小麦も多量に生産できるようになったことから、急激に麩 の需要は伸び、麩を扱う業者も全国的に増えた。
しかし昭和16(1941)年、第二次世界大戦の影響により、日本は食糧難に陥り、食糧管理法によって小麦の供給もなくなったため、麩の業者は休業や廃業を余儀なくされ、業界は停滞を迎える。小麦粉の統制が解除されたのは昭和27 (1952)年からである。 戦前、麩の製造業者数は全国で推定1200軒ほどであったが、食生活の洋風化などによって、転業あるいは後継者問題での廃業などの結果、今日では200軒を下回るまで減り、いまだ減少傾向が続いている。
(日本食糧新聞社『食品産業事典 第九版』(引用箇所の著者:協同組合 全国製麩工業会))