本場で修行したい人のためのイタリア現地情報
イタリア料理の大ブームもピークを過ぎたといわれる昨今ではあるが、依然として日本のイタリア料理店の数は大変なものである。 それとともに、これまで間接的に伝わってきた画一的なイタリア料理でなく、本場のイタリア料理を学びたいと渡伊する料理人の数は増え続けているという。
筆者もイタリアの食に魅せられ、作ることも含めて現地の料理を体験したいとイタリアに渡った一人である。渡伊を希望した三年ほど前には、料理研修に関する情報はまだ非常に少なく、イタリアヘの料理研修といえば、各料理店の経営者の紹介などがなくては難しい場合が多かった。
しかし今は受け皿となってくれる研修制度が増え、調理師の資格を問わない制度や一ヵ所だけにとどまらず各地方の料理が学べる制度、期間が選べるものなど、さまざまな選択肢が用意されるようになった。
ある種武勇伝として伝わるようなたぐいの、何の紹介もなく単独で渡伊し、言葉が通じなくても店側となんとか交渉し、各地の名店を渡り歩くというケースは今ではむずかしくなりつつある。というのも、イタリアは完全失業率が一二%と高く、不況が続いているうえに近隣諸国の政情不安などもあって、外国人の流入を阻止する動きが厳しくなっているため、紹介はおろか労働ビザや滞在許可証、衛生許可証など公式の書類なしで店に突然行っても門前払いをくわされる結果となる。
また、料理はいくら技術の高低が問われるとはいえ、厨房では人間対人間の付き合いがあるわけなので、最低限必要な言葉のやりとりができないと一人前の人間として認めてもらえないばかりか、間違った知識をひとり合点して持ち帰ることにもなりかねない。
こういった背景もあって、今では現場(厨房)に入る前にイタリア料理の総合的な知識や語学などを学ぶことができ、また許可証なども保証してくれる研修制度で渡伊する人が多くなっているようである。
日本の店を休んで来た人の場合は、帰国後の勤め先が保証されている分イタリアにいられる期間は限られているが、その分できるだけ多くのものを吸収しようという意欲は大きい。店を辞めて来た人は帰国の期限は自分次第なので、ひとつの店に腰を落ち着けてじっくり滞在する人、数ヵ月単位で店を替わる人といろいろだが、長くいれば言葉の理解とともに人とのつながりも増え、イタリア料理の理解もより深いものとなる。
筆者の周囲にもイタリアの厨房で頑張っている方々が多い。ほぼ半年ごとに催される修業中の料理人の親睦会では、毎回各地から三〇~四〇人集まり、活況を呈している。
各研修機関が紹介する店は大体飲食店の最上位に格付けされる「リストランテ」という形態の店であることが多いが、こういった店で研修する日本人コックの評判はおおむね高く、進んで日本人を受け入れる経営者も多い。
これにはわれわれがイタリア料理の総合的な知識も持ち、まじめによく働くと思われているという面もある。
またそのほかに、これは私見であるが、近年のフランス料理志向――これは後にも詳述する――があり、これに、日本の西洋料理人の素養であるフランス料理の知識が求められていることが挙げられると思われる。
言葉や慣れの問題もあるため、料理人の方が実力を発揮できるようになるにはある程度の期間同じ店にいることが前提ではあろうが、こういった実力のあることがわかると、店側に慰留を請われるケースが多いようである。
イタリアの料理人養成機関にはホテル学校(調理師学校とサービス技術養成学校を兼ねた機関)があるが、教えているのは基本的な調理知識の域を出ないようで、生徒たちは年に数週間のステージ(実地研修)や就職で厨房に来ても、すぐには役に立たない者が多い。
またイタリア人は食の分野に非常に保守的な部分があり、新奇なものを受け入れにくい土壌があった。そのため、体系化されたものになったフランス料理をはじめ、外国料理を学ぼうという動きがこれまであまり盛んでなかった。
時代が変わりヌーベル・キュイジーヌの時代を経て、高級店では逆にフランス料理のベースが求められるようになった今では、イタリア料理の知識だけでなく、われわれには常識となっているような、例えばテリーヌなどの成型から製菓技術、美観を尊重した盛り付けにいたるまでのフランス式の知識が求められているわけである。
こういった点を踏まえてみると、まじめでよく働き、自分たちの求めている知識や技術も持ち、しかもプロの料理人であるから、(言葉を除いては)一から教え込む必要もない日本人の料理人がよろこばれるのはごく当然かもしれない。
しかし、これがメリットばかりといえない面もある。本場のイタリア料理が知りたくてやって来たのに、すでに知っている技術の反復ではやって来たかいがない、と、多くの優れた料理人の方々が、いわゆる一流店や有名店で研修する時によく当惑するようである。
ベテランの料理人の方が「イタリアヘ研修に行っても料理技術に学ぶものはない」とくさすのも、首肯せざるをえない部分はある。
また、勉強のために食べ歩きをしようとミシュランガイドなどで評価の高い店に出向くと、そういった店のなかには、メニューこそイタリア語だが「フォアグラのパテ、コンソメジュレ添え」や「ヴィシソワーズキャビア添え」ということも多く、釈然としない思いにかられることもある。
私たちにしてみれば、イタリア料理には素朴な面があってほしい、と願う部分があるからだろう。
しかし一国の料理というのは一面的な印象で決めつけられないものであるし、新風が吹き込まれることでそれを消化し、新たな文化の原動力としていくのなら、こういった高級イタリア料理界の動向はそう憂うべきものともいえないのではないだろうか。
「日本人はなぜ栄養的にも優れた日本食だけを食べないのか」と外国人に問われても困るのと同じように、外国人である日本人とそこに日々暮らすイタリア人とでは、イタリア料理に求めるものの方向は同じにはならないようである。
高級店のフランス志向は依然大きいようだが、その是非は別として、フランス料理との違いが分からない料理を供する店は、全体から見ればやはり限られている。また階級社会の名残かもしれないが、そういったある程度以上客単価の高い店に行く層というのもまた一定であり、普段ピッツェリアや食堂にしか行かない多くの人は、奮発してフォアグラを食べに高級店へ行こう、とはあまり考えない。
スープやパスタなどのプリモピアットと肉か魚のシンプルなセコンドピアットが毎日の定番メニューであり、家庭でも外食でも食べるものの差はあまりなかったりする大部分の人々にとっては、大事なのは新奇さではなく“なじみのおいしさ”にあるようだ。
こういったさりげない食堂で地元の人だけが食べるような料理には、イタリアから日本に持ち帰られて受容されたイタリア料理とは異なったかみ砕かれていない風合いがあり、かえって新鮮な発見がある。自分が作るだけでなく、こうした未開拓の美味をあれこれ発見するのも、料理研修期間における一つの収穫だと思える。
また最近はフランス料理の技術を踏まえつつ、その地の料理を洗練されたものにアレンジするなどの試みを行っているリストランテも増えているようである。単なる無造作とは違い、手間をかけつつもあえて無造作に演出するというさりげなさは、これまでの地方料理にはなかった点だろう。
あくまで私的な印象ではあるが、こうした新たな動きには、日本からイタリア料理を学びにやってくる料理人の方々の影響も少なからずあるように思えてならない。もしこういった形で影響し合えているのなら、これほど素晴らしい文化交流はないといえる。今後日本の、そしてイタリアのイタリア料理がどのような影響を受け、どう変化していくのか、見守っていきたいところである。
◆筆者紹介◆合田達子氏(ごうだ・さとこ)=早稲田大学卒業後、イタリア料理店での見習いを経て、一九九四年エコールキュリネール国立に入学。九五年夏、ICIF(外国人のためのイタリア料理研修)参加で渡伊。現在イタリア・トリノ市内のリストランテで料理修業を続けながら、百歳元気新聞(日本食糧新聞社)に「クチーナ通信」を連載。そのほか文献研究、地方探索を含めてイタリア料理のより深い魅力を探るべく研鑽中。二七歳。