シェフと60分:NewYorkNOBU総料理長・森本正治氏

1999.04.05 175号 19面

NYでは、ウエーターはひとつの確立した職務。単なる運び屋ではない。

「NOBU」では基本的にメニューの下に説明がない。日本と違い、卵は駄目、豚肉は駄目とか、ベジタリアンであったり、シーフードにしてくれとか、一卓を囲むお客の要求はさまざま。これをとりまとめるのがウエーターの仕事。

「説明をしながら商品を売っていくのです」

当然にメニューを組み合わせる能力が要求される。こうして組み合わせられたメニュー伝票は料理人に渡され調理されるが、料理の出来不出来はすべて受け取った料理人の腕にかかわり、時には五〇ドルの料理が一〇〇ドルの料理を上回ることもある。

そこで稼ぐウエーターは腕のたつ料理人を選び、魚はこれ、ソースは何と指示して伝票を渡す。

「これが本当のサービス。お客に一番近いのがウエーターであり、お客の代弁者。要望に添うようできるだけのことをする」

日本ではどうだろう。ウエーターの指示に素直に従えるだろうか。

「例えウエーターが魚の名前を間違えても怒ってはいけない。お客の要望が優先。間違いは後で正せばいいのです」

人一倍勝ち気な男、森本シェフがここに到達するまでに四年はかかったという。これもお客に喜んでもらいたいという強い思い入れが根底にあったからだ。

NOBUはNYで定着し、初めて世界に飛躍できるようになったといっても過言ではない。

「土地には土地の持ち味がある。同じレシピの料理を出して当たるはずがない」が持論。既に出店していたロサンゼルスと違った森本流の色合いを大胆に展開し、NewYork NOBUの地位を確立させた。

オープン当初はロサンゼルス店のグランドメニューと同じくしてスタートした。ところがNYはメキシコに隣接し、気候風土、人種も違うロサンゼルスとは全く異なるし好をもつ。お客のニーズに敏感な森本シェフが黙っているはずはない。少しずつ地域に合わせたメニューに変化させていったことはいうまでもない。

第一歩は「肝心なのは最初の一口。強力なインパクトが求められる。まずは味を同じにしながら盛りつけをシャープにした」

条件はトップと同じながら、一介の料理人として入社。下からのスタートでここまで持ってくるには本人の並々ならぬ努力と情熱があったからだ。

自己分析では「結構執念深い性格で、仮想敵をつくるのがうまい」というだけに、みるみるうちに頭角を表し、トップに立つ。メニュー、発注、すべてを取り仕切るが、欠けているのが政治的権限。ここでひるまないのが元野球選手。コックコートに、名刺に自らの身分と名前を入れ「シェフの証」とした。

「オヤジさんもだれも文句を言いませんでした」と自信と誇りに満ちた表情。

すべて本人が良しとしておこなったこと。勝ち取ったといっても過言ではない。生き馬の目を抜くNYの一面を見た思いがする。

昨年、東京にもNOBUが進出した。

「われわれがロサンゼルスを起点に新しいNewYork NOBUをつくり上げたように、東京のNOBUも変えなくてはいけない。同じ日本人ではあるが、地元に帰ったのではなく、NYから来たんだという意識を持て」とスタッフには檄を飛ばす。

基本的にはNYも東京も競争は厳しい。ただ東京のほうが同じようなコンセプトで店舗展開する店が多いとみる。こうした激戦区の中でどう特色を打ち出すか。

「日本ではコメにしろ肉にしろ、どこどこのものを使っているという。また、市場に行けば何でも手に入る。これに対抗するには、逆にカリフォルニア米やアメリカから来たヒラメを使ってこそ面白くなる。もっと輸入の努力をして欲しい」

無い食材を何で代替するか、どう入手するかに、今でも最大限の努力を払うという森本シェフ。無から有を作り出す名手ならではの一言だ。

当分は「和の鉄人」としてだけではなく、世界のNOBUを目指す料理人として行き来が続きそうだ。

世界に飛び出し見聞を広めようと第一歩を踏み出したのがアメリカはNY。インドと同じで好きな人は好き、嫌いな人は嫌いと評価が二分する土地柄だ。

「五年のつもりが居座ってしまった。為替レートがどんどん下がっていくので帰るに帰れない」と笑うが、今では「NYが肌に合っている」と言わせるまでに。ここを拠点に和の料理で世界を制覇する夢が実現するよう祈る。

その前に、初めてアメリカに上陸した時、目にした韓国人の出稼ぎ集団が難民のように見え、自らに置き換え「いつかJALで帰ろう」と心に決めたというが、未だ実現していない。成功の暁には実現してほしいものだ。

◆プロフィル

昭和30年広島市生まれ。子供のころ、父親の給料日になると一家そろって外食に出かけるのが習わしだった。まず喫茶店でコーヒーとケーキを食べ、すし屋へが、お決まりのコース。この時、目にした板前が格好良く見え、後に料理の道を歩むきっかけの一つとなる。

広島崇徳高校時代は野球部キャプテンとして活躍。将来はプロ選手も嘱望されるが、家庭の事情で断念、すし屋に住み込み、料理人人生のスタートを切る。

二五歳ですし屋を開業、続いて喫茶店を営みながら火災保険代理店、チラシ配りなど四つの仕事をこなしながらの日々を送る。二九歳で世界を回り、見聞を広めようと訪れたNY(ニューヨーク)から抜け出せず、今に至る。「NewYork NOBU」の総料理長として、また本人は不本意な「和の鉄人」として東京、NYを行き来している。

文・カメラ 上田喜子

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