百歳さんこんにちは:青森県・小野淳信さん(101歳)

2013.03.10 212号 06面
穏やかな笑顔が魅力的

穏やかな笑顔が魅力的

昼食はいつも大好物のそば

昼食はいつも大好物のそば

 青森県弘前市の小野淳信さん(101歳)は、予防医学を念頭において85歳まで開業医(内科)として患者を診てきた。ライフワークは「学校保健の海外普及」。日本に留学して帰国した教え子たちとの交流をいまも続けるなど、誠心誠意を信条にした生き方を貫いている。

 ◆病気にならない方法を教えたい

 淳信さんの生まれは福島県東白川郡で、父親は苦学して医者になった人だった。淳信さんは中学時代を愛知県刈谷市で下宿生活し、「学友と文学や映画の話ばかりしていて、父に映画監督になりたいと話したら、“バカ言うな”とひどく叱られました。苦労して医者になった父が怒ったのは当然。それで、入学試験のない北海道帝国大学の予科に入学しました」と医学の道に入ったいきさつを語る。

 「病気にならないことを教える医者になるため、予防医学をめざしたのです。在学中に肋膜を患ったため、卒業まで8年かかりました。北海道は私にとって第2の故郷です」。卒業したのは昭和15年。翌年には太平洋戦争が勃発した。

 ◆忘れられない戦時中の体験

 「戦時には軍医として大陸に渡りましたが、心に大きく残る思い出が2つあります。その1つは、満州(中国東北部)の前線で私が中尉だった時に、精神病にかかった若い兵士が病床から逃げて、突然サーベルを抜き暴れそうになった事件です」と淳信さん。

 「“母の元に帰りたい”と取り乱した兵士を私が諭しました。私は当時、副隊長だったので、こうした事態が起これば軍法会議にかけられ処罰されると覚悟していました。ところが部隊長に呼ばれ、大尉に任じられたのです。上官に恵まれていたのでしょう」

 ◆敬天愛人すべてに感謝

 もう1つの思い出は、結婚して2年後の32歳、中国河北省の北部の内蒙古で、独立歩兵部隊の軍医だった時に部隊長がチフスにかかった。「100キロ先にある病院に部隊長を入院させるため飛行機の手配を参謀に願い出たら、“大尉のくせに生意気だ。トラックで行け”と一喝されてしまいました。ところが、単発単葉の粗末ながら飛行機が用意されて、それに大尉を乗せ30分で病院に着いたのです。後日、部隊長から呼ばれて少佐に抜擢されました」。淳信さんの誠心誠意の思いが通じたのだろう。

 昇格した淳信さんが新しい旅団の軍医長として西安に行軍している時に終戦を迎えた。「黄河流域の収容所で8カ月間の捕虜生活を送り、日本に帰還しました」と話す。

 「敬天愛人すべてに感謝」を信条にする淳信さんの生き方は、戦争中であっても人間関係がいかに大切かを教えてくれる。

 終戦後は保健所長として学童保健に尽力し、内科医として開業したのは48歳の時。「終戦から2年経って下北半島に移って校医になり、学校保健に取り組むようになりました。病気を治すのではなく、病気にならないよう予防医学を学び、それを念頭において開業したのです。これまでに500人の患者に紹介状を書いてきました」。

 学校保健の普及を図るため、現在も弘前大学教育学部の外国人留学生との交流を続けている。卒業後、モンゴルの知的障害児の学校で教鞭をとっている教え子たちからは「また、先生に会いたい」というラブレターがメールで送られてくる。こうした“メル友”はモンゴルだけでなく、中国、フランスと世界各地にいて、ライフワークは着実に実を結んでいる。

 ◆寝る前に腹式呼吸と肺呼吸を

 健康法は「食事が一番。そばが大好きで、昼食はほとんどそば。抗酸化物質として知られているルチンが多く含まれているので健康食です。朝食は取らず、昼食は腹七分目、夕食は六分目にしています。それから、寝る前に腹式呼吸を10回、肺呼吸を10回して健康管理を心がけています」と医者の養生を説く。「花を植え、草を取り、花と話し、自然と親しむことも健康に良いことです」と実践している。

 趣味は謡曲で、開業した頃から観世流を続けてきたが、いまは「シングソングライターです」と言い、即興で謡う。

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