センティナリアン訪問記 百歳人かく語りき:愛知県・岡田津るゑさん(99歳)
岡田津るゑさん(九九歳)と向かい合っていると、暖かい空気が伝わってくる。笑顔も語り口も、彼女の生き方、人生を反映してか、柔らかくて心地よい。愛知県津島市・日光川に沿ったケアハウス『陽だまりの里』の4階。津るゑさんの個室には、午前中の優しい光が射しこみ、筆者は津るゑさんとの対話に、満ち足りたひとときを過ごした。
津るゑさんの朝は早い。4時半に目覚め、軽い準備体操を済ませると5時半から、大雨でもなければ、日課の散歩に出かける。玄関口を出ると、田んぼの畦道に沿って日光川の堤防まで、きれいに舗装された道が真直ぐに伸びている。
「買物カートを杖代わりに、かっきり一時間。片道四〇〇歩、一三回往き来して合計五二〇〇歩、雪が降っても歩きますよ。平成13年2月3日にここへ来てから欠かしたことがない」
数字、計算、記憶力の確かさは、とても九九歳とは思えない。
「犬を連れた人と会ってね。かわいい犬で、最近では私の姿を見つけて駆け寄ってくるの。頭を撫でてやると、犬のパワーをもらったみたいに元気になり、一日中幸せな気分でいられる」
7時までには自室に戻り、健康器具で足をマッサージ。7時30分からの朝食は、ゆっくり時間をかけてとる。嫌いなものはなく、何でもありがたく残さずいただく。昼までは自室でテレビを観たり、うとうとまどろんだりと気ままに過ごす。
津るゑさんの多芸・多能ぶりが発揮されるのは、昼食が終わった午後の時間。洋裁のほか、キーホルダー、折り紙……などなど興に応じて手芸に取り組む。
切り揃えた色とりどりの毛糸や色紙といった材料が部屋いっぱいに広がる。棚やテレビの上に作品が飾ってあり、華やいだ雰囲気である。『陽だまりの里』の職員や入居者にも、乞われれば気軽に教えている。
三重県四日市で生まれ、三歳の時、母を喪う。二五歳の若さだった。アメリカに出稼ぎにいっていた父親も早くに亡くし、兄弟もなく、孤児となる。親戚の世話になりながら高等小学校を卒業、二年間、和裁学校に通う。
二三歳で結婚、名古屋に出たが、五人生まれた子供のうち三人まで幼児のうちに死亡した。戦災で焼け出され、戦後、伊勢湾台風にも見舞われる。長男も五三歳で三人の孫を残して先立った。
和裁の仕事をしていたが戦後、注文が少なくなったので昭和23年、四三歳でYMCAに職を得る。七三歳まで三〇年間、続けた。雑役の仕事だったという。
「習い事は大好き。何でも吸収し、勉強したい。いまはもう、新しくは始めないけれどね」
積極性と行動力は抜群だった。YMCAでの仕事は午後4時に終わるので、それから社会学校で園芸、ペン習字、貼り絵、さらには天文学の勉強もした。
六〇歳から一〇年間、詩吟に凝った。歌が好きで、いまも興に乗れば黒田節などを歌うという。六八歳からは、身体が衰えてもできるものをと考えて、編物、籐工芸、七宝焼を各四年間ずつ習った。
「体形が悪いので既製品が身に合わない」ので、嫁さんや孫がミシンを使っているのを見よう見真似で独習し、いまでは普段、身に着けるものはたいてい、自作してしまう。
好奇心が旺盛で、積極的な津るゑさんは、いつも楽観的、不平不満を口にしない。
「何でも良い方に解釈するよう心掛けるから、嫌だなんて思ったことないね。くよくよしたって仕方がないよ。ここの利用料、電気、水道代を厚生年金でまかなえるのは三〇年間勤めたお陰。言うことなし、極楽、極楽」
六人の孫、六人の曾孫に恵まれ、『陽だまりの里』の事務長の土井義久さんは「ご家族もしばしば訪れて、本当に良い人間関係を築かれておられますね」と口を添える。どんな境遇、環境でも幸せを手にできる人柄なのだ。
津るゑさんは、若い頃から日記を毎日つけてきた。ケアハウスに入るまでは『三年日記』だったが、ここへ来てからは、大学ノートに替えた。
「だって、この歳だと、いつお迎えが来るか分からないでしょ。でも毎日が楽しいから早よ、あわてて死ぬことはないわ。時期がくれば死ぬだろうし、ちっとも怖くない」
几帳面で、しっかりした文字、文章を読むと、意志が強く、人並み優れた努力家の一面が浮かび上がる。
『百歳元気』を支えるのは、頑健・長寿の家系や順調な人生、健康食品でもない、生き方、人生観そのものなんだ……と津るゑさんの話を聞きながら思った。











