読者のひろば 昭和1ケタの父の「飢え」に感じること
昭和一ケタ生まれの父は少年の頃をその日の食事にもこと欠くほどの〈飢え〉に悩まされていたそうである。しかしそんな飢餓の中にあってもときには満足のいく〈食〉にありつける日もあった。そんな時、ここぞとばかりに一〇杯ぐらいのご飯を平気でたいらげたそうである。
僕はこの話を聞いた時、ここに何か人間の〈飢え〉の本質があるのではないかと感じた。普段父はおそろしく少食であり、たとえが私が知りえない少年の頃の父であったとしても、一〇杯も食ったなどというのはどうも合点がいかない。実際彼の体は、少年の頃からガリガリで煮干しのようであったそうである。
そんなガリガリの少年がご飯を一〇杯も食うなどというのは、僕も時には、おそろしく腹を空かすことはあるが、それでもせいぜい三杯も食べれば、もうご免だ。
つまり人間の〈飢え〉とは単なる胃袋の問題ではないのである。今日飢えなくても明日は飢えるかもしれないという恐怖はのっぴきならないものだったろう。
〈飢え〉への恐怖を持ったものは、逆にその恐怖が胃袋の飢えを支配し、ガリガリの少年が一〇杯のご飯を食うなどという胃袋的には不可能な事を可能にしてしまうのだ。人間の〈飢え〉は他の動物たちのそれと違って〈食〉を超えて存在するということか。(古川信弥、26歳)