長寿の里探訪 山梨・棡原 寿命は食べた野菜の量に比例

1996.07.10 10号 15面

麦を中心に据えた食文化で長寿者を輩出した山梨・棡原(ゆずりはら)に異変が起こったのは、昭和三〇年前後とされる。契機は何であったか。これが昭和二八~九年、村民が長い間待望していたバスの開通であったというから皮肉なことだ。

バスの開通により、農業・林業、炭焼きなど棡原独特の昔ながらの生活パターンは一変。青・壮・中年層はそれまでの仕事を捨て、東京方面に新しい職を得た。かつて「コメの飯をたらふく食って死にたい」というのが村人たちの唯一の悲願であった。それが白米はおろか、肉、卵、牛乳、ハム、砂糖、菓子、焼酎に代わる酒、ビール、ウイスキーの類が一気に村に入ってきたのだ。

この食生活、生活様式の急変が村民の身体にいかなる影響を与えたかは、昭和四三年からスタートした近隣医師、古守豊甫氏と長寿学の大家、故・近藤正二博士(元東北大学教授)の調査で明らかになることとなる。

古守氏は当時の様子を「老人たちは元気で働いているのに大正生まれの中年層が成人病で不如意の生活を送っているのに気付いた。いったいこれはどうしたことであろうかと不思議に思っていた。中には老父が息子の葬式をするといった光景も目撃した。その後この異常現象はますますひどくなり、ついに昭和一ケタ生まれの働き盛りの中年層まで波及するに至った」と著書「長寿村・短命化の教訓」(鷹觜テル氏と共著)の中に記している。

親が子の葬式を出すこの現象は「逆さ仏」と呼ばれた。当時の村民たちは理由が掴めず「何かの崇りではないか」という流言すら起こったらしい。古守氏は著書の中で、その本当の理由を「(棡原の大正・昭和一ケタ生まれの世代は)動物性たんぱく・脂肪に乏しい穀菜食で育てられ、それによく適応してきた。ところが戦争中の食糧不足のもと青少年期を過ごし、戦後の五〇歳前後の時には未曾有の経済成長期にぶつかり、高たんぱく・高脂肪・高カロリーの近代食をとった。これは人体の適応力の限界を超えた負担となり、それが裏目に出て成人病による短命化をもたらしたものと私は考える」と分析している。「飢餓に強く、美食に弱い」ことが日本人の特徴であることも強調。

「人間の寿命はその人が一生の間に食べた野菜の量に比例する」‐‐古守氏は、昭和四〇年代以来の調査で得た報告書から、健康・長寿のために現代日本人が穀菜食中心の食生活に改めなくてはならないことを提唱している。

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