だから素敵! あの人のヘルシートーク:女優・松島トモ子さん

2004.01.10 102号 4面

女優の松島トモ子さんが、子供の頃からバレエなどに親しみ、踊りの名手であることは有名だが、「車いすダンス」という競技においても、世界的レベルの選手であることはご存じだろうか。12月6・7日に開催された『第3回 全日本車いす ダンススポーツ選手権大会』でお話を伺った。

私が車いすダンスを始めたのは五年前のこと。見ず知らずの三〇代の男性からお手紙をいただきました。「もうすぐ第一回車いすダンス世界選手権が日本で開催されます。出場したいけれどパートナーがいません。トモ子さん、ぜひパートナーになっていただけませんか」という内容でした。

競技自体当時ほとんど知られておらず、私も初耳でした。でも知らないことだったら、知りたいなと思って。

ご住所があったのでお休みの日に伺ってみました。突然の訪問だったのに温かいご家庭で、特に子役時代から私を見ていてくれたお母様から熱心にお願いされました。それで何も分からずに、この世界に入ってしまったんです。

でも甘かったですね。「踊りは踊りでしょう」とラクに考えていた。ヘンな自信を持っていたともいえます。練習が始まって、それが大変な間違いであると分かりました。車いすを動かすことがあんなに大変だとは。車いすの踊り手、ウェルチェアドライバーは普通のダンスでいえば女性のパート、対するスタンディングパートナーは男性の役回りなのですが、男の人は痩せて見えても結構重い。六七キロの彼に車いす、合わせて八〇キロ。オートバイの事故で障害を持った彼は胸から下が麻痺していて、その部分協力が得られない。慣れないので力で動かそうとしてしまって。まるで引っ越しの手伝いのようで、踊りにならない。腰は痛いは脚は痛いは、身体中アザだらけです。

本番まで一カ月しかない。彼も私も仕事がある。朝早くとか夜遅くの稽古です。本当に特訓に特訓を重ねました。私はもうつらくてつらくて、そんな中、とんでもない暴言を吐いてしまったんです。

彼はとても綺麗な人で、だからすまして見えるのね。なんだか私だけが汗をダクダクかいて大変な思いをしているような気がしてしまって、「あなた、本当は立てるんじゃない? ねぇ、もうお願いだから、立ってよ」って。言ったのは自分なのに、言った瞬間、もうこれで私たちのパートナーシップもおしまいだと思った。けれど、彼は口元でニヤッと笑って、こう言ったの。「トモ子さん、バレました? そう、僕は夜中の2時を過ぎると、立って歩くんですよ」(笑)。

年下の彼のユーモアに救われました。その会話をキッカケに心のバリアが外れて、私たちは気が合うようになった。自由に踊れるようにもなったんです。結果、大会の新人戦でなんと優勝。本当に驚きましたね。

その後、とても華やかな一年がありました。選手も少ない時代だったので、車いす競技の殿堂、イギリスのストークマンデビルで開かれる大会でデモをしたり、地方の障害者の会に招かれて教えたり。頑張り過ぎてしまったのかもしれません。彼が身体を壊し入院することになりました。手術を繰り返す日々、私はもう一度、彼が「トモ子さん、シャル・ウイ・ダンス?」と言ってくれる日を一年半待っていましたが…。

いま彼は競技は難しいけれど、自分の楽しみとしてダンスをしています。「いろいろな所で演技を見せて、このスポーツを広めてほしい」という協会の要請で、私はさまざまな人と踊ることになりましたが、車いすダンスの世界に誘ってくれた彼との思い出は、いまでも胸の中で輝いています。

とにかくこの車いすダンス、いままでの仕事と何が違うかというと、女優は極論すれば自分が美しく映ればいい仕事でした。周りの人もそう盛り上げてくれた。一方、車いすダンスの主役はあくまでもウェルチェアドライバー。まず相手がどれだけ楽しんで踊れるかを考える。そこで私はこれまでの仕事やダンスのこと、初めて気づきました。男性舞踏士の方のおかげで、どんなに上手に綺麗に見せていただけたかと。サポートする方がずっと大変なんですね。

パートナーの人に大会の後、「どうだった?」と聞くと、入賞がどうのではなくて「とにかく楽しかった!」という答えが大半です。「僕が歩いていた時のことを思い出した」とかね。ダンスで日常生活も改善される。最初の彼が、「この頃嬉しいことあるんだ」とある時、報告してくれた。とてもラーメンが好きなんだけど、腹筋がないので汁をテーブルに置いた丼からすするしかなかった。それが腕で丼を持ち上げることができるようになったのだと。腹筋はなくとも、背中がピシッと立つとか、握力が鍛えられるとかあるんですね。

今年は二〇歳の男性と組んで特訓二週間、この大会に臨んでいます。彼はマウンテンバイクの競技選手で事故を負い、右半身が麻痺しています。これまで腕の動きが不自由な方と組んでなかったので、またイチから練習でした。モダンの場合は社交ダンスのように腕を組んで、お互いの間が円にならなくてはならない。片方が縮んでいると楕円になってしまい、遠心力が得られない。けれどそうした障害も一つの個性として、自分たちの形を創っていけるかどうか、もしかして大会には間に合わないかもしれない状態だったのですが、この日に臨めてホントに良かった。来年はまた世界選手権があるので、この彼とそれを目標にトライしたいくらいになってきたんですよ。

二代目のパートナーはトランポリンの練習で失敗し第四頚椎を損傷していました。実は私もテレビ番組のアフリカロケでヒョウに襲われて、同じく第四頚椎を折り、九死に一生を得ています。車いすに乗って動き回れることは、この事故で一番いい状態です。普通は即死か寝たきり。私はどういうわけか、麻痺も残らず、仕事にも復帰できた。神様に生きろと言われたのかな、助けていただいたのかなと、感謝しています。そういう運命への恩返し、そんな思いも込めてパートナーを務めました。

私もリハビリの時はつらい思いをしました。半年後にミュージカルの全国巡演が入っていて、お医者さんに「いつ頃お稽古を再開できますか」と聞いても、「とにかく命あって帰ってこられたんだから、もうあなたは十分、満足なんですよ。歌や踊りなんてとんでもない」と。けれど小さい頃から歌や踊りしかやってこなかった私です。いまさら他のことはできないし、どう生きていけばいいのかと。

結局、公演は全部出てしまいました。車いすで「申し訳ありません」と前後にご挨拶をする、というシナリオで旅に出たけれど、やはり現場に行くとどうしても踊りたかった。まっすぐ歩くことができず、首をかばうので足をねんざしたり、血尿も出ましたけれど。いまはきつい冷房が直接あたる時、つらいくらいで、それを注意していれば、大丈夫。本当におかげさまです。

リハビリ中は、母が特製のジュースを作ってたくさん飲ませてくれたのを思い出します。帰国時、四〇キロの体重が三三~三四キロに身体がしぼみ、真っ黒に日焼けしている様子を見て「どうしようか」と思ったそうです。それでいろんないいものが入ったジュースを飲ませたら、「植物が水を吸うようにメキメキと元気になっていった」と。「首の骨が折れたのならと、カルシウムのサプリメントを」と、これもいっぱい飲まされました。「赤ん坊じゃないんだから、骨がまた生えるわけないじゃない?」とも思ったけれど、回り回って良くなっていった気がします。食べ物の効果と家族の愛は大きいです。それから自分自身の「助からなくちゃ」という強い気持ちも大切ですね。

◆プロフィル

まつしま・ともこ 1945年、旧満州生まれ。3歳からバレエを学び、それがキッカケで50年映画『獅子の罠』でデビュー。以後、『鞍馬天狗』『丹下左膳』などで子役として活躍。歌手としては童謡、ポピュラーなど幅広い。著書に『母と娘の旅路』(文芸春秋)、『車椅子でシャル・ウイ・ダンス?』(海竜社)ほか。

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