センティナリアン訪問記 百歳人かく語りき:東京都・大塚志げさん(98歳)

2004.07.10 108号 8面

明治38年に生まれて、8月に99歳の白寿を迎える大塚志げさん。岐阜・高山の師範学校を出て母校の教員に。小学校の頃は人形遊びは大嫌いで、雪遊びばかりしていた、と笑いながら回想する。

私はね、何をして遊んでおったのか。

お手玉はちょっとやりましたけどねえ。男のするようなことが大好きで、ままごととか、ああいうことはあまり好きではなかった。男のするような雪遊びです。雪玉こさえて投げつけてみたり。でも、外で雪遊びをするとやっぱり身体が濡れるんですよ。そうすると、怒られる。乾かすのが大変でした。それから、私はお人形遊びが大嫌いです(笑)。

私が覚えているのは、小学校一年の時、地区の神社の大祭で踊りに出された時のこと。夜と昼の二回踊るのですが、夜になると眠くて眠くて。サツマイモを蒸して、それを持って、この下に隠しとって、食べながらこうやって……。

大正9年、岐阜の女子師範に入りまして、大正13年の春卒業して……。その後高山の母校に、四年勤めました。それから結婚をしましたので、隣の町へ移動しました。また七年、先生をしました。まあ一一年は勤めました。

高山には小学校は二つしかないんですが、おもしろいところで七歳にして男女席を同じうすべからず。だから、幼稚園までは一緒にいるんですが、一年生で学校に入ると男子校と女子校に。教師も同じです。若い先生がね、同じ学校の中で恋愛関係で結ばれたりすると学校を替えられる。一緒に学校を出た者同士が恋愛したら二人とも飛ばされた。ええ、主人は体育の先生でした。すごく哀しかったんですよ。

主人は九歳年上の同じ飛騨出身。喧嘩も一ぺんか二へん大きいのをしましたよ。

その後、二人でいろいろな仕事をしたんですよ。戦争中は子供を連れて、主人の実家に疎開し、本家の農家の嫁として務めもはたしました。それまで、そんなことやったこともないのに。大変な思いをしました。でも、いまとなっては本当によかったと思っています。いろいろしていたことが人生の役に立ちました。

娘が紅茶を買ってね。そのくじが当たって主人と二人でハワイに行きました。

娘が仕事で忙しかったので、私たち二人が思いきって行こうと。まあタダだから。タダでなければ行きません(笑)。実はその時、息子がフランスに留学していて、「遊びにいらっしゃい」と言われたので足慣らしになんてハワイに行ったんです。でも向こうで主人がお腹を壊して。水も食べ物も違いますからね。それで、「もう海外には行きたくない」って。

フランス行きはおじゃんになっちゃった(笑)。

あと二年ほどで一〇〇歳になりますけど、それだけ生きて、じっと家で「奥様候(そうろう)」で生きてきた人より、ひどく得したなあ、大もうけしたなあって。人生は、同じ時間を有効に使ってこそ、本当の人生だと思っています。

*    *    *

右の『百歳回想法』の著者は、黒川由紀子氏。東京大学教育学部教育心理学科卒業。現在、慶成会老年学研究所所長で、臨床心理士の肩書を持つ。「尊厳性の確保」「大往生の創造」を運営指針に掲げる青梅慶友病院との連携で2003年9月に『百歳回想法』を著した。同書の座談会に出席された大塚志げさんのコメントをここに再現した。(上写真右端が黒川氏)

協力…月刊ソトコト編集部。慶成会老年学研究所所長・黒川由紀子氏

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