センティナリアン訪問記 百歳人かく語りき:東京都・飯田俊雄さん(100歳)

2004.11.10 112号 8面

明治37年5月22日、千葉県旭市に生まれた。日露戦争が勃発した年だ。〇歳の時に父を失い、「父親の顔は知らない」と遠くを見つめるように語る飯田俊雄さん(一〇〇歳、東京都在住)。

「私をこれまで生かしてくれたのは女房のお陰」と妻の美代子さんにそっと目をやりながら少し顔を赤らめる。明治生まれの気骨を内に秘めながら、温かい心で周囲の人を包みこんでしまう包容力。「自然体で生きることの大切さ」を体得した人だ。

9月7日、東京・世田谷区浜田山の自宅で石原慎太郎東京都知事の表敬訪問を受けた。一〇〇歳長寿の祝意として、祝状と記念品を石原知事が手渡した。当日、訪問を受けた際、飯田さんは知事に「知事閣下殿とお呼び申しあげたらよろしいのでしょうか」と敬意こめてあいさつした。そのことばに恐縮したのは知事であったように見えた。

終戦の昭和20年に飯田さんは千葉県の要請を受けて、早稲田大学法学部卒業後ずっと勤めていた東洋紡績を辞して製塩会社を興した。社名は「東産業」。昭和51年に発行した社史「東産業三十年のあゆみ」の冒頭の“はじめに”で「三〇年という年は長いようでもあり、また短いようにも感じます。……記録も少なくまた、古いこともありますので、私がつたない口述をし、諸事業について概括的に記述いたしました」(昭和51年6月29日、代表取締役社長・飯田俊雄)とある。

マッカーサーの指令により、塩の生産開始は昭和22年2月までと厳命されていた当時、国(千葉県)の要請を受けて製塩工場を立ち上げた人だ。そういう飯田さんの輝かしい経歴を石原知事は当然知っていて、飯田さん宅を訪問しているはず。「知事閣下殿」と言ったのは飯田さんの持ち前の茶目っ気と、これまでの事業経営者としてのプライドの“発露”に違いない。

早大を卒業した昭和4年に東洋紡績に入社した。福沢諭吉とともに並び称される渋沢栄一に出会ったのは早大2年の時。「本家のおじさんに紹介されたのです。小僧に行くような気分で渋沢さんのご自宅についていきました。そして、私を誉めちぎる渋沢さんに接して、“こういう人のためなら命はいらない。自分の血をすべて差し上げてもよい”と思いました」とその時の心境や記憶をたぐり寄せるように語る。

飯田さんは水泳で身体を鍛えた。千葉県九十九里の海は飯田さんにとっては“箱庭”のようなものだったに違いない。潮が激しく混じり合う難所も独泳法で泳ぎきる。その激流に溺れ流されかけている仲間を助けたという。度胸と腕力そしてとっさの判断力が少年時代から身についていたようだ。渦潮に流されかけたのは飯田さんのいとこ筋にあたる茂木敬三郎さん、後のキッコーマン社長(故人)だった。「激しい流れの中で助けを求める相手が私の身体に抱きついてくる。二人一緒に溺れてしまうと、とっさに判断して相手の頭の後ろに右手で一撃を与えて気絶させ、仰向けにして左手で抱き抱えるようにして右手だけの抜き手泳法で、足が地に届く砂浜までたどり着いたのです」。まるで昨日の出来事のような迫力のある語りぶりだ。

ことし結婚七一年目を迎える。妻の美代子さんとの出会いは、朝日新聞社社会部の敏腕記者だった千葉県銚子出身の鈴木文史朗さんの夫人から薦められたのが縁。その美代子さんとの日課は足のリハビリを兼ねた散歩。美代子さんは飯田さんとの人生の歩みを短歌の中に詠んでいる。

飯田さんが日頃心がけていること。また、モットーにしていることがいくつかある。それは「仁(じん)。広く人を愛するということ」「人生も経営も同じで、自然体で生きるということ」そして「滅私奉公」。恩義を受けた渋沢栄一翁の写真に毎朝あいさつを欠かさない。

購読プランはこちら

非会員の方はこちら

続きを読む

会員の方はこちら