だから素敵! あの人のヘルシートーク:作詞家・阿久悠さん

1997.06.10 21号 4面

ただいま全国松竹系で公開中の「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」の原作者は、阿久悠さん。阿久悠さん自身の子供時代の実体験を下敷にした「飢餓旅行」という小説がその原作だ。舞台は昭和21年春の淡路島から九州まで。戦後の混乱期の中で、それぞれたくましく懸命に生きている人たちのふれあいを描いている。(現代という)「時代とのキャッチボール」をもの作りのコンセプトにしている阿久悠さんに、いまこのお話を世の中に提示した狙いをインタビュー。「こだわっていない」といいながら充実度の高いプライベートの食生活習慣も、合わせて披露してくれた。

現在の住まいは伊豆の宇佐美。みかん山だった所でまあ広い庭があるものだから、家の敷地内で竹の子や蕨が採れます。楽しいですよ。竹の子の季節になるともう知合いの人がみんな掘りにきます。落葉がすこし盛り上がっているかどうかなっていうくらいを見つけて掘らなきゃダメなんですね。掘りたてのものは茹でなくてもおいしいんです。えっ? 僕は掘りませんよ。毎年「もうそろそろじゃないか」って言っているだけです(笑)。

まあそんな風にね、気がついたら目の前に食べ物があって、とくに自然食にこだわって食事をしているわけではない。何も考えていないんだけれど結果としてきちんと自然食になっている。そんな感じです。自然、自然って言ってこうしなければいけないと思い込んだら、もうその時点で不自然になっているような気がします。

それともうひとつ、身体が要求しているものを食べる。これも食からの健康法の基本なんじゃないかな。「これが健康にいいに違いない」と決めたりしたらよけいストレスを生んでしまう。もうすこし自分の身体や精神状態を信用してね。疲れているから肉が重いなと感じることもあれば、疲れているから欲しいということもある。法則ではないんです。朝起きて「ああ、あれが食べたい」なんて頭に浮んだら、きっと一番健康なんですよ。

出身は兵庫県の淡路島。海があって山があって、現在の住まいに似てるっていえば似ていますよ。風景的に何かそういう所を自然に探してしまうというのはあるでしょうね。子供時代の原風景というか。例えば歌を書くときでも、打ち合わせで避暑地の歌を作りましょうということになったら、僕は海だと思って書いてしまう。ところが相手先は軽井沢だと思っていたとか。そういう違いってありますよね。

生まれてから大学進学のために上京するまで一八年、やっぱりずっと見ていたわけですからね。自分でも知らない間に季節とか風景とかいうものに対し、まるで写真を撮っているように感性のシャッターみたいなものをたぶん押していたのだと思います。それはいつ押したのかも分からない。自分がシャッターを押していたこと自体に気がつかないんだけど、何十年か経ってみるとね、いっぱいそれが現像されて出てくる、そんな感じでしょうか。

今度作った映画の原作、あれもほとんど子供の頃の経験の中で、僕の気持ちの中に残っていた記憶が基本になっています。原作の設定と同じく終戦の翌年、僕は九歳でした。あの日あの時のある日本とある日本人というもの、九歳の少年の目に焼き付いていたものが、いまやっぱり取り出して語り合ってみるべき値打ちのあるものだと確信したのが、この映画を作った最大の理由です。

戦死した一番上の兄の遺骨を故郷の九州・宮崎に届けるため家族旅行をしたというのも事実。その旅行の船の中できっぷのいい闇屋さんや映画の巡回さんなど、いろんな不思議な人たちに出会ったっていうのも本当のことです。ただね、船の壁をスクリーンにして映画を上映したというの、あれはフィクション。映画でも上映できたらみんなどんなに楽しかっただろうなという気持ちを小説にしたわけです。

九歳の圭太が(一家心中の旅ではないかという噂を本気にして)遺書なんて称して旅行記のような文を書いているでしょ。原稿用紙に五○枚くらい。僕がそんな長いものを書いた初めての経験です。処女作? うーん、そう言われてみればそうかもしれないな。だけど旅行から帰って学校に行って提出したら「長すぎる」って言われてがっかりしたのが本当のところです(笑)。

あそこに登場してくる人たち、いまからみると不思議なことをやってますけれど、べつにウケようと思ってやっている人は一人もいない。人間ぎりぎりの極限状態になって懸命になって生きていこうとすると、何ともいえない人間らしいおかしみとかユーモアというものがでてくる。いまの時代はそれがでる前に自分で答えを出してしまって止めてしまう。そのうちに人間同士がなんとなく、本当のふれ合いみたいなことをする方法を忘れてしまった、そんな気がしますね。

映画の中の昔気質で不器用で頑固な父親像。あれは僕の父親像にまあほぼ近いものです。むかしの父親って威張っていて相談もしないで何でも自分が決めて先に行っちゃうでしょ。あれは責任をとっているつもりなんです。家族全員が悩むことはない。ひとりが悩んで片付ければいいという。

最近よくいう友だちのような親子というのはどうかなあ。関係を曖昧にすることは、責任や魅力も曖昧にすることだと僕は思う。父と子なんてそもそも会話なんてないんです。あるはずないです。因果なものなんですね。因果な関係だから切るに切れないしベタベタしていると気持ち悪いし、本当は困りきっている関係。これが父と子なんですよ。僕は思うのはだからそんな中で、おそらく一生の間に二回か三回「こいつの息子であって良かった」とか「こいつが俺の息子で良かったな」とか思うことがあれば上出来なくらいではないかと。

盛り場で何人もの酔っ払いの若者にからまれたのを、即席の木刀でぴしっとやっつけるというシーン。あれは旅行中の出来事ではないけれど祭りの日かなにかに親父がやったのを、実際に僕は見ました。実にカッコよかった。映画ではそれを見た子供が「あっ、バンツマ(時代劇の名優の阪東妻三郎)だっ」と叫ぶでしょ。僕はこの作品の中では子供の立場で書いているけれど、いまはそこから後の父親の立場でね、息子役をみたりします。

そんな目で眺めると、父親というのは一生のうち一回子供に「バンツマだっ」って叫ばせることができるかどうか。そういう存在なんじゃないでしょうか。

日本の家には倉庫がないから前の物をちょっと置いておくということができない。新品に取り替えると、もう古い物を取り出して確認したり楽しんだりすることが二度とできなくなる。そういうことが文化だけでなく、生き方やモラルということにも影響しているという気がします。「あれはもう古い」ということで排除されてしまうんですね。

バトンタッチリレーをしてね、受け取った前のランナーのことは分かっているけれど、スタートは誰がきったのかがもう分からなくなっていると。終戦の頃の話はまだ家族の中で語ってくれる人がいるはずなのに語られない。いまの日本の社会がどういう形でスタートしたのか知らない。写真を撮り忘れたので元の姿が分からないというのがいまの日本の現状だと思うんです。映画でそれをすこしでもみつめていただけたら嬉しいですね。

◆阿久悠(あく・ゆう)さんのプロフィル

一九三七年兵庫県生まれ。七一年「また逢う日まで」、七三年「ジョニーへの伝言」、七六年「北の宿から」、七七年「勝手にしやがれ」、七八年「UFO」等々、作詞家として数々の大ヒット曲を持つ。一方で、直木賞候補となった「瀬戸内少年野球団」、第二回横溝正史賞受賞の「殺人狂時代ユリエ」など小説家としても才能を発揮している。

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