だから素敵! あの人のヘルシートーク:山下・全日本柔道連盟強化ヘッドコーチ
一九八四年のロス五輪。軸足を故障したにもかかわらず気迫で乗り切って金メダルを獲得した、その勇姿はいまも私たちの心の中に鮮明だ。第二の人生、選手指導の監督業も、来年9月のシドニー五輪でクライマックスを迎える。「欲張りだから、第五、第六の人生も考えている」という山下さんに、その踊り場の心境とこれまでの道程を語ってもらった。
私が柔道を始めたのは小学校二年生の時ですが、そのキッカケはほかの子と違っていました。小学校入学時でもうすでに六年生の服がピッタリ。みんなより頭一つ大きいんです。身体がデカイだけじゃない。非常に元気がありました、というよりあり余っていて学校で問題を起こしていたんです。商売に忙しく子供のしつけまで手が回らない両親も、「このままでは将来息子は人から後ろ指を指されるようになるかもしれない、何とかせにゃならん」と心配して、それで考えたのが私に柔道をやらせることだった。スポーツ、特に武道には、勝敗や身体の鍛錬だけじゃない、精神を高めてくれるものがあるという期待があったんでしょうね。
そんなことから始めた柔道ですが、これは非常に激しい競技です。柔道着の帯をしめてルールに従えば、あとはどんなに暴れ回っても、だれからもなんにもいわれることはない。私は自分のエネルギーを思う存分発散することができる柔道にすぐに夢中になりました。しかしその時は遊びの延長でしたから、両親の期待したような効果はなかった。依然として小学校六年間は、担任の先生からお褒めのお言葉をもらうことは一度もない児童でした。いや、本当の話なんです。証拠があるんですから。
ロス五輪で優勝した後、熊本県の生まれ故郷の町に帰り、一枚の表彰状をもらいました。そこにはこんな文章があります。「表彰状。山下泰裕殿。あなたは小学校時代、その比類まれなる身体を持て余し、教室で暴れたり、仲間をいじめたりして、我々同級生に多大な迷惑をかけました。しかし、今回のオリンピックにおいては我々同級生の期待を裏切るまいと持ち前の闘魂を発揮して、怪我にもかかわらず見事金メダルに輝きました。このことはあなたの小学校時代の悪行を清算して、我々同級生の誇りとなりました。よってここに表彰し、偉大なやんちゃに対し最大の敬意を払うとともに永遠の友情を約束します」。当時はそのくらい悪かったんですよ(笑)。
そんな私が中学校に入りました。ここで柔道部の白石先生と出会ったのが、私の転機です。ただ勝つための技術ばかりでなく、柔道をやる人間としてのあり方や心構えを繰り返し教わった。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。先生はこの言葉が大好きでした。素直な心、謙虚な心を持てと。世の中で本当に一流といわれる人たちは、どんなに成功しても謙虚な心を持ち続けているのだと。「柔道がちょっと強くなる、三段四段くらいになると、俺は強いんだとばかりに肩をいからせたりする者がいる。しかしそんなのは強くない、決して一流じゃない。本当に強い奴は自分の武器を決して見せない。本当に強くなれば人間優しくなるものなんだよ」と。
この白石先生と、高校から全日本時代までの監督の佐藤先生。二人の恩師が私を変えてくれたんだと、最近まで信じていました。ところが自分が選手を指導するようになって、疑問がわいてきたんです。「どんなに頑張ったって、はたして人間が人間を変えられるものかな」と。長い間考えました。そしていまはこう思っています。「もし本人が気づけば、人はいくらでも自分を望む方向に変えていくことができるんだ。変えるのは自分なんだ」、そんな風に思いました。
二人の素晴らしい先生との出会いは大きく、両先生は絶妙のタイミングで私に気づきのヒントを出してくれた。魂を揺さぶられてハッと気づく。より多く魂を揺さぶられるほど気づきが多くなるのではないでしょうか。
振り返って「ああ、あの時自分は大きな気づきがあったんだな」と、思い出す二つの話があります。
一つはいまから七~八年前、大学で学生を教えていた頃のことです。私はその柔道部員のことを非常にやる気のない、怠け癖のある問題部員だと思っておりました。日本一を目指す仲間の中で、一人だけ意欲がない。自分だけでなく仲間を遊びに誘っているように見えた。私にしてみれば一生懸命やっている者の志気を落とす全くの迷惑な存在で、実際にその学生の顔を見れば「おまえのような奴が何でここにいるんだ」というように苦言を呈してばかりいました。ところがその問題児が白血病で病の床にある人に血液提供を約束し、その人と家族を影になり日向になり励まし続けるという行為をしていたんですね。
私はその学生を、道場というある一面から見て人格まで決めつけてしまっていた。高校までは県を代表する強い選手だったそうです。しかしさらに強いグループに身をおいて、自分の選手としての能力の位置を感じ、柔道には身が入らなくなってしまった。けれどもその子にはそういう優しい面があったのです。人は多面的に見なくてはいけませんよね。学生から教えられた話です。
もう一つの気づきは、尊敬する佐藤先生との話です。私の現役時代最後のライバル攻略においてでした。その選手は私より三つ歳下、初めの頃は私が圧勝していましたがどんどん強くなり、戦えば戦うほど差がなくなる。その頃はどっちが勝っているのか分からなくなっている状態でした。そんなある日、佐藤先生が言いました。「泰裕、おまえ、横捨て身の技を使ってみたらどうか。おまえに合うと思うよ」。とっさに私はこれは身体が硬い自分には合わないと思って「はあ、ちょっと私には合わないと思います」と答えました。一カ月くらいしてまた、先生が非常に遠慮ぎみに「この前話した横捨て身だけれど、俺、おまえやってみたらいいと思うんだよ」と。「はあ」。会話は一言で終わりました。決して先生を軽くみるつもりはない、けれど私の頭の中にはオリンピックも経て「自分の柔道は自分が一番良く知っている。それは私にはできないことだ」という考えがあった。それからもう一カ月してです。「泰裕、俺、おまえにいいと思うな」。最初と同じ内容です。「はあ、でも先生。私腰が硬いものですから」。
その瞬間、穏やかな先生がいきなりもの凄い顔をして怒り出しました。「おまえは失礼だよ!確かに俺の言っていることは間違いかもしれない。おまえに合わないかもしれない。でもな、俺がな、おまえのことを考えていいんじゃないかと。一回じゃないよ。タイミングをみて三回言った!それなのにおまえは一回もやろうともしない!」。
先生の怒りの模様を見て「俺は大変失礼なことをした」と反省しましたよ。先生は私のことを真剣に考えてアドバイスして下さったのに。これはできるできないは別として、一週間か一〇日はやってみなきゃいかんと。それでも心の中では「たぶん合わない」。ところが、やってみたらかかるんですね、これが面白いくらいに。ほかのことならともかく、柔道に関しては自分のことは自分が一番良く知っていると試しもしない。私のことを思ってくれる先生のアドバイスを即座に却下した。なのに全然違った。私の持っていたものなんて、ほんのわずかな経験に過ぎなかったんですね。
以前はオリンピックの金メダルをはじめとして、数え切れないくらいのトロフィーや表彰状を家に飾っていました。しかしいまわが家に飾ってある表彰状は、例の同級生たちからもらった一枚だけです。柔道部の監督を退いて部の寮を離れ、家を引っ越した時、そういうものを飾るのになぜか違和感を感じてやめたんです。半年くらいたって、ああ、そうかと分かった。いまの俺にとって大事なのは現在をいかに大切に、そして将来を見据えて生きていくかであって、過去の栄光なんてあんまり関係ないんだと。そういう気持ちがあったから、違和感を覚えたんだなと。 来年の9月のシドニー五輪が終わったら、現役選手生活に続いた監督生活、私の第二の人生が終わりになるでしょう。私はなかなか欲張りで、五つか六つくらいの人生を送りたいと思っております。柔道界やスポーツ界に恩返しができる、そんな人間になりたいですね。