忘れられぬ味(12) 旭食品会長・竹内明義 小僧時代のハイカラ商品
私は昭和10年(今から六二年前)に高知高校の前身、城東商業実践課を卒業し、大阪の食品問屋に就職して行きました。その当時は徒弟制度の終わりの頃で、早速「義吉とん」という名前で呼ばれるようになりました。
大阪は名の通り八百八橋というほどに橋と、天王寺、上六などの昔小山であった街で、坂道が多く馬車と荷車でにぎわっていました。
ハウス食品は土佐堀にあり、のれんを開けると香辛料を石臼でつく香りが鼻をついていました。
大メーカーのサントリーも、長堀通り本詰めの末吉橋北入の浜通りで、電話注文をすると赤玉ポートワインの法被(はっぴ)を着たおっちゃんが、肩引車で配送をして来ておりました。
カルピスは高級品で、月給五円の小僧の口に入る飲料水でなく、夏は破損したびん詰めをタオルでこしてお相伴に預かって味を知りました。
三年間の丁稚奉公を終え、高知で食品店を開業致しましたが、びん・缶詰の加工食品は贅沢品で、一般に普及していませんでした。マヨネーズなどは、田舎では駐在所のおまわりさんか学校の先生くらいしか知らない珍しい商品です。ソース・ケチャップ・コーヒー・ココア・缶詰・味の素などのハイカラ商品は委託で売って回りました。集金に行くと売れ残り商品を自宅で使うからといって代金を支払ってくれる得意先もありました。
第二次世界大戦に参加して、無事に生きて帰ってきました。昭和23年から商売を再開し、流通革命の波に乗って、今日の旭食品を築くことができました。
(旭食品(株)会長)
日本食糧新聞の第8288号(1997年11月10日付)の紙面
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