忘れられぬ味(65) 三島食品会長・三島哲男 高野豆腐の味と人情の味
芸北千代田町の高等小学校を卒業した一五歳の私は、父に連れられて広島市へ奉公に出た。奉公先は広島青果卸売市場の中にあった海産乾物の卸問屋の山栄商店であった。
父は店主の山本栄吉さんとわずか五分ばかり話をしただけで、見送る私を振り向きもしないで帰って行った。
丁度昼食時であったので、山本さんが「お昼を食べておいで」と食堂を教えてくれた。出してくださったのはご飯と高野豆腐の煮つけだけの至極簡単なものであった。ところがその高野豆腐の美味しかったことと言ったら、私にはたとえようのないものであった。家族と別れて一人になり、他人の家にいる淋しさも忘れさせてくれるものであった。
私の家はその五年ほど前、父が事業に失敗して貧乏のどん底にあった。田舎のことだから米には不自由しないものの副食品には事欠く状態であったから、この高野豆腐の味がことさらに美味しかったのであろうと思う。
私は「精一杯働き沢山の弟妹たちにこんな美味しいものをたべさせてやりたい」と思い、無駄遣いをせず給料をためては、何か見つくろって家へ送ったものである。
それともう一つ。私は現役と召集と二度の兵役に服したが、その留守中勤務先の山栄さんは、私の家へ私がしていた以上のことをしてくださっていたことを手紙で知り、特に父が亡くなってからは一層親身になって面倒を見てくれていたことを帰還して知り、私は陰で泣いた。
私が結婚した時には、山栄さんはご自宅に大勢の人を集め私たちの門出を祝ってくれたし、また創業に当たっては、山栄さんのバラックの一部を貸してくださった上、資金の借入れには保証人にもなってくださったのである。
私はいろいろな機会にこのことを思い出し、また人にも話すのであるが、その都度こみ上げてくるものがあって声がつまるのである。
私の舌に残っている高野豆腐の味が、私をして食品企業を志さしめ、山栄の山本さんからいただいた人情の味が、その後の私の人生の指標となったことを心より感謝している次第である。
(三島食品(株)会長)
日本食糧新聞の第8401号(1998年7月27日付)の紙面
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