忘れられぬ味(54)太子食品工業・工藤茂雄社長「慈母の納豆弁当」

ここ青森・南部地方は、梅雨の時期から夏場にかけて「やませ(山背)」というオホーツク海高気圧がもたらす冷たい風が吹き、昔からあまりお米がとれない冷害地帯でした。しかしこのような厳しい風土でも大豆の栽培には適しており、日本でも有数の豊富で良質な大豆の生産地でした。私の家は、祖父が現在の地に移り住んだ昭和15年に、この良質の大豆を原料として「太子納豆」づくりを興し、昭和21年には父が納豆の製造販売を引き継いで家業としておりました。

私は昭和26年(一九五一年)生まれで、小学生のころにはまだ、今のような「学校給食制度」はなくて、それぞれ弁当をもって通学しておりました。学校の秋の恒例行事として、薪ストーブ用の薪を父兄の方々が何十人も校庭でノコ引きをし、割って山積みにしてくれました。私たち生徒はそれを一列に並んで手渡しをしたりして、校舎の軒に壁のように積み重ね、厳しい冬に備えました。

なにしろ三戸は県内では積雪は少ない方ですが、寒さは盆地特有の厳しさがあり、屋根から地面に届くほどのツララも、珍しくありませんでした。冬は木造校舎があまりに冷えているので、薪ストーブの火付け当番という係があり、みんなより早く登校して教室を暖める役割があったほどです。

今のような効率の良い断熱材が使われているような建物ではもちろんないので、持参したそれぞれの弁当もそのままでは、冷えきってしまい、とても食べられるものではありません。ですから、薪ストーブの上には「暖飯器(だんぱんき)」という蒸し器の大型版のようなものが置かれてありました。私たちは三時間目の授業が終わった休み時間に、それぞれ弁当をその暖飯器に入れて暖めなおして食べることができました。

母は父といっしょに家業の方で大変忙しくしておりましたので、今考えると粗末なおかずの弁当でしたが、ご飯の方は母のオリジナルでした。それはご飯の間にお醤油で味付けした納豆をサンドイッチのようにはさんで、上に海苔をのせてそれを押し寿司のようにしているのでした。お昼近くになると、私の弁当から納豆の香りが教室中にプンプンしてきます。お腹がすいてきている先生も、「工藤は今日も納豆だな」とユーモアを返してきます。いざその弁当を食べるときには、納豆の旨味をお醤油がご飯にしみこませて、父のつくった納豆と母のぬくもりがジワーと感じられた旨さでした。今でもこれ以上のものはなかったと思わせる忘れられない味です。

(太子食品工業(株)代表取締役社長)

日本食糧新聞の第8862号(2001年6月25日付)の紙面

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