シェフと60分 中国料理「北京飯店」料理長 関 雄二氏 簡単明瞭、講釈いらない
短い期間だったがアメリカに渡った。
日本のガキとからかわれながら包丁を握らされた。言葉ができない分、証を見せるのは料理とばかり孤軍奮闘。結果は「お客にうまかったと言わせること」になる。
振り返ると、当時のアメリカの中華料理は分かり易く、親しみが持てた。
色彩感覚、味付けすべてがはっきりしており、「日本のようにぼけておらず、自分が丁さんから教えられた料理そのものだった」という。
中国式のシンプルな作り方でも、結果としておいしくできあがるのだ。
日本の中華料理は改良され過ぎた。フランス料理風、和食の懐石風、美化され、ファッション化した料理が氾濫している。
「逆に、中華料理だからこそできる、中華料理だからこそ食べられるもの」がアメリカにはあったという。
「どの店でも、きちんと代表料理を出していました」
自らの味がどう評価されているか、また、何が要求されているかを探る努力を怠らない。
店では年四~五回宴会メニューを替えるが、新しいメニューは、一週間六種類あるランチで試す。反応が良ければ宴会に入れたり、主婦を対象とした料理教室にも入れる。
「主婦の言葉は飾りがない。きれいはきれい、おいしいはおいしいです」
料理教室で何を取り上げようかと悩むとき、まず自宅の冷蔵庫を開け、食材の点検をする。ここでヒントを得てメニューを考えるのが常。
一つに、パンは古くなると捨てられる運命にあるが、生徒にはおいしく食べる法として冷凍を勧める。と同時に、中華では昔からある、パンを蒸して具を巻いて食べるメニューを思いつき、紹介したところ好評だった。
「料理教室は、教えながら教えられる場、主婦は反面教師です」
こうしたさまざまな場を積極的に利用しながら、四川古来の料理、前任の料理長が出さなかった料理、自らのオリジナル料理をどんどんぶつけていく意気込みは、弱肉強食のアメリカ在住以来引きずっているかに見える。
昔は上の人の味は絶対だった。
もしチーフが中国パセリが大好きで、自分が嫌いだったらどうするか。
「勿論、努力をして好きになり、その人の味に近づこうとした」
また、その人の味が世間ではおいしいと評価されれば自分はまずいと思っても、その味を勉強しようとした。
今では、こうした経験を重ねての結果、「自分の味」を打ち出すようになり、客のニーズに応えられる柔軟性も持てた。
若いコックの育成を図ろうと発足した中国料理研究親睦会「菜譜会」のメンバーには、味の他流試合を奨励する。
同じ青椒肉絲でも、コック歴一~二年、二~三年ではそれぞれ味の表現は違う。
一年生には、なぜ先輩と違うのかを考えさせ、また、先輩には、彼らに負けていられないといった下からの突き上げ、味の下剋上を期待してのことだ。
人生一回、師と仰ぐ人も一人で良しが持論。
かつて井の中の蛙的であった若き青年に、海の外の存在、ひいては中国料理の奥の深さを知らしめてくれたのが丁目平シェフ。
「今でも大きな存在」というが、それほどに思える師に出会える人も数少ないだろう。
日本人が作る料理は得てして講釈が多く、作るまでに時間がかかり、おまけにできあがった料理はこんなものかとがっかりさせられることがある。
「丁さんのは簡単明瞭、シロはシロ、クロはクロの世界で曖昧なものがない料理法」。しかし、食べ手の好みを細かく分析し、それに合わせて素早く素材を変え、調理法も変える。
それまでは、四川料理はこれだ、という先入観があり客が辛いと言えば「これがうちの料理だと押しつけていた」。
伝承の味に新風を吹き込んだ訳だが、これは「当時としては大変なことだったのです」。
チップ制の是非が問われるところだが、常に危機意識を持たせる指導法をとる。
例えば、ホールに二〇のテーブルがあった場合、自分の持ち分が五テーブルとする。この持ち分については自分なりに精いっぱいのサービスをする。隣の人間がタバコを吸っていようがだ。
「アメリカでは常に、いつ首になるかの危機意識を持っている」
自分がチーフとなった今、このアメリカ式手法を厨房でも採り入れ、仕事に対するプロ意識を持たせるようにする。
昔のように怒鳴ったり、叩いたりするのでなく、一人ひとりの意識改革を図ろうというわけだ。
個人的能力差は、ひととおりの教育を終えた段階で「各人に合わせた適材適所」でいく。
あとは自分は何が得意かと聞かれたら、答えられるものを作っておく。また、「前菜の陳です」と言えるセールスポイントを作る必要性も説く。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
昭和38年、横浜市生まれ。家業がすし屋のため、ごく自然に料理人の道に入る。
横浜・中華街の「徳記」を皮切りに、「白楽天」「同発」で広東料理を、後「大沼飯店」などで四川料理を修業。この時代に運命を大きく変えた丁目平氏に出会い、触発されてアメリカに渡る。
弱肉強食のアメリカで言葉もままならない身にありながら、負け犬にはなるまいと突進、ついには認められチーフとなる。
帰国後は、残してきた妻子のもとに帰り生活を営んでいるが、チャンスがあれば、再び生き馬の目を抜く厳しいアメリカへ乗り込みたいと、日々腕を磨く。
現在、「北京飯店」料理長を務めながら中国料理研究親睦会「菜譜会」に所属し、若手育成に励む。