榊真一郎のトレンドピックアップ しおれていく街でのしおれない老舗の味

1998.08.17 158号 4面

しおれていく街、神楽坂で、しおれるにはまだ早い私が真っ先に飛んでいく場所といえば、大好物の天ぷら家です。天ぷら屋でなく、天ぷら「家」と表現したのはそれなりに理由があるからで、その理由こそが神楽坂を神楽坂らしくしている理由なので、まずそこをご紹介のスタートにしましょう。

神楽坂の坂道の中腹を右に曲がって路地をしばらく歩いて、ほのかに暗い石畳の狭い路地を分け入っていくと、その先に一軒家があります。色っぽいというか艶っぽいその一軒家が「天孝」という天ぷら家です。で、どんな天ぷら家かというと、「お店を独り占めするというだいご味から生まれるうまいモノ屋!」という表現に尽きます。

そのしおれた日本家屋の構造を生かした離れ風の個室にしつらえられたカウンターを囲んで、揚げていただく天ぷらのぜいたくなことといったら、まさに「お店の人を独り占めする」だいご味。しかも年季の入った職人さんの手仕事を独占するわけですから、これは究極のぜいたく、ということになるでしょう。

そもそも飲食店というもの「お客さまの一方的な片思い」になることがほとんどで、最悪は「ほかのお客さまをサービスする片手間にサービスを受ける」という印象を受けてしまうことすらあるのですから、本来の意味での気配りとかサービスとかを体験しようと思えば、こんな店の存在は非常にありがたいわけです。

名店は来て欲しいお客さまの満足のさせ方を知っている。繁盛店づくりには「うまいもの」が必要であることはだれもが知っている。というか、だれもがそれを気にして商売している。

東京には「われこそ本物の天ぷら」を自認する人たちがたくさんいて、それなりに名店を獲得されているのだけれど、それでは「だれのための本物」なのか、ということまで考えた店って少ないんじゃないか、と思うのです。私なんか天ぷら好きではあるけれど、若いころと違ってどんなにおいしくても、翌日までもたれるような天ぷらはもう食べられない。

その点、ここの天ぷらはこれ以上あっさりすると天ぷらじゃなくなる直前までサッパリしていて、しかし奥行きのある味だけは立派に主張している。ちょうど上質な卵焼きに包まれたベリーレアなお刺身をいただいているような気持ちにさせてくれる「大人のため」の天ぷら。自分がおいしいと思うものより「来て欲しいお客さまと共有できるおいしさの追求」をしている店、といえばおわかりいただけるかな?

この店にふさわしいしおれ方を身につけようと思わせてくれるのが、良店の条件! ただこの店で、私が心からくつろげるかというと、結構これが悔しくて、もう少し人生修行をした方がいいのかな、と思うのですね。

たぶん、うちの榊芳生社長なんかがこの店のこの座敷に座って、ここのこのご主人と対峙しつつ天ぷらをつまむ、というのが極めて正しいこの店の楽しみ方なのだろうなと思うと、やっぱり悔しくもあり、でも正しいしおれ方をマスターして、いつかはこの店でくつろげる人になろう、と生きる勇気まで与えてくれる。そんな店はそんじょそこらにあるもんじゃないでしょう。

お店の未来永劫の繁盛を願うなら、今のお客さまを大切にするだけじゃなくて、未来のお客さまを育てることもしなくちゃいけない。この店はチャッカリそんなことも試みているわけでしょう。侮りがたし、神楽坂の天ぷら家、という具合です。

しおれていく街のしおれていそうで、どっこいみずみずしくしおれぬ店のご紹介でした。

((株)OGMコンサルティング常務取締役)

気になる今回のデータ

※「天孝」=東京都新宿区神楽坂三‐一、Tel03・3269・1414

この店のだいご味は八人まで座れるお座敷での濃密な時間。一室しかないのでぜひ、電話でご予約されてから訪問されたし。

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