業界人の人生劇場:味よし社長・大西勇氏(上)
「ラーメン屋をやりたかったんですよ」と、(株)味よしの大西勇代表取締役は青年期の夢を振り返る。「勤め人には向かないと強く感じていましたし、最初から、外食の世界で生きて行きたいと思っていました」
けれども、小学校六年生の時、日立製作所に勤めていた父親を事故でなくしまして、住居が社宅であったこともあり、養成工として日立製作所へ勤めなければならなくなったのです。
しかし、やはり勤め人には向いていませんでした。三年ほど勤めて、養成工を辞めました。そのころ、洋品店をやっている知り合いがいたものですから、頼み込んで、そこで働くことにしたのです。外食とは全く異なる世界でしたが、商売の世界であることには変わりはない。商売の何たるかを修業するにはちょうど良いだろうと考えたんです。
そして、ちょうど二〇歳になったころ、銀座に本社があるハンドバッグ、カバン専門店「コスモ天地堂」の求人広告を新聞で見て、これも、外食とは無縁の世界ですが、応募したのです。ここで、仕入れ、販売といった、商売のノウハウを修得しようと。私が商売をやりたい、という思いは、本能的に自分の適性を表現していたのでしょうね。
コスモ天地堂での成績は見る見る上がり、入社後それほどたたずに、蒲田店の店長に抜てきされました。ついで、吉祥寺店、そして、横浜駅ビル店の店長と、都合、三店舗の店長を歴任しました。この間に商売とはいかなるものかを、身をもって勉強することができましたよ。
二五歳になっていました。それでも、食べ物を売ることへの執着は捨てきれず、コスモ天地堂を退職。百貨店の食料品売り場での、佃煮と菓子類の量り売りを始めました。一定の期間限定で場所を借り、量り売りをする、あれですよ。
あちらこちらの百貨店でこの仕事をしまして、それなりに軌道にのっていました。でも、まだ何か足りない。やはり外食の世界へ身を投じたい。そう、体が騒いでいたのでしょうね。
まだ、「ラーメン屋をやりたい」という願いは強く、いろいろと、募集広告などに目を通す毎日が続きました。焦りもつのる。けれども「自分はまだ若いんだ」と言い聞かせて、チャンスを待ちました。
一方で、量り売りをやっていたころ、すしのテークアウトコーナーがやたらはやっている、いつも客が列を作っているのを見て、「すしはもうかるんだな。すしをやってみようか」と、現在につながる部分が芽生えはじめてもいました。
ある日、新聞のチラシ広告で「A寿司」の求人を見て、ピンときました。「よし、すし屋になろう」ってね。これで、ラーメン屋ではないけれども、念願の外食の世界に身を投じることができた。気合が入りましたね。おかげで、数ヵ月後には店長をまかされました。
さらに、そこで、すしの握り方から仕入れ、ネタ管理、すしに関するおおよそすべての修業を、寝食忘れて体にたたき込みました。その態度が認められたのか、東京・世田谷方面七店舗の支部長になり、店舗管理をまかされるようになりました。うれしかったですよ。念願の外食の世界で、これほど早く、突っ込んだ仕事を任されるようになったのですから。
しかし、A寿司の経営が傾きはじめていました。まずいな、とは思いました。しかし、A寿司本部が展開する七〇店舗をすべて売却する方針を明らかにした時、「要するに、すでにある店舗を手にいれることができるということ、すなわち、独立へのまたとないチャンスではないか」と、自分の運勢が大きく開けて行くように直感しましたね。
二七歳の時です。私は綱島店を二五〇〇万円で買い取りました。スーパーいなげや内の、インストアーショップ、テークアウト専門店です。坪数は四~五坪程度でしょうか。小さな店ですが、念願の独立第一号店です。二五〇〇万円プラス、課されていたロイヤルティーの返済には自信がありました。
A寿司在職中、すしに関するすべてを身につけた、だれにも負けない、売って売って売りまくって、借金なんかすぐ耳をそろえて返してやる、くらいの意気込みがありましたよ。
店は、テークアウト専門だったのですが、おけを持って来て買いに来られ、「これに入れてくれ」と頼むお客さんが結構いたのです。「出前の需要もあるな」とにらみまして、軽自動車一台とバイク二台を買い込み、出前の需要にも対応したのです。
さらに、宅配専門店を九一年5月に保土ケ谷にオープンしました。そのころは、朝4時に起き、ちらしをまいて、7時に市場へ仕入れにでかける。9時から仕込みを始めて、綱島店へ戻っては巻物類のショーケースをいっぱいにしておいて、開店を迎える。
営業中はテークアウトと、二店舗での出前をこなし、目の回る忙しさでした。でも、やりがいがあった。何一つ、苦痛なことはなかった。人間、好きなことを仕事にできれば、それは本望です。ちょっとやそっとのことではへこたれない。
このように、二店舗ともはやりました。綱島は宅配もやるようになって、月商八〇〇万円はたたき出しましたよ。巻物は作りおきを売りましたが、握りは握りたて、ツーオーダー主義を貫きました。
だって、ツーオーダーの方が、絶対うまいじゃないですか、特に握りは。お客さんはまず、私の店でオーダーをして、スーパーの買い物へ行ってくれたんです。そして、小一時間ほどして、買い物帰りに、出来たてのすしを持って行く。
量り売りをしていたころ見た、テークアウトのすし屋の前の長い列が、私の店の前にもできるようになったんですよ。こんな、うれしいことはない。結果として、五年で全額二五〇〇万円を返済しました。
私はこの小さな店の主として、外食の世界でどのように自分と店を成長させて行くことができるだろうか。ラーメン屋をやる夢はすしを握ることに変わりましたが、自分の将来をいろいろと頭の中で思い描き、設計しては、楽しめる、スタートラインに立つことができたわけです。(洛遥)
◆横顔
(株)味よし代表取締役大西勇氏。自らの性格を根っからの商売人であると自覚。友人の経営する洋品店を手伝うことから、ハンドバッグ店チェーンの中堅幹部を任されるまで商人道へ食い込み、その後「A寿司」で、すしのノウハウすべてを身にたたき込む。A寿司の店舗売却を機に、念願の独立を果たす。苦労人である氏にまつわるエピソードは、枚挙にいとまがない。鷹揚とした容貌の氏の言葉の端々には、これまでの人生を、氏持ち前の体当たり戦法で切り開いてきた、揺るぎない自信がうかがえる。「仕事が楽しくてたまらない」と語る大西社長の頭脳には、味よしの今後の成長の青写真がさまざまに描かれていることだろう。東京都出身、四六歳。
◆企業目も
(株)味よし。資本金五〇〇〇万円。創業一九八一年。七九年に某テークアウトずしチェーンから二五〇〇万円で買い取った綱島店が直接のルーツ。その後、直営で一二店舗を運営。一九九一年5月、横浜市保土ケ谷に宅配専門一号店をオープン、翌九二年4月、法人組織としての(株)味よしが誕生。テークアウトと宅配の混合業種であった既存店舗を順次、宅配専門に業種転換。味よしとしてのFC第一号店を九五年6月、東京・昭島にオープン。その後、堅実な売上げ増が評判となり、加えて積極的なFC募集広告を打つことで、現在、FC店舗一七〇店舗を運営する、宅配ずしトップチェーンにまで成長する。九八年内にはFC店舗二〇〇店舗展開を目指し、今年2月、大阪支社を開設。一方で、11月には福岡支社を開設。全国規模での宅配ずしチェーン構築へ向けて、急成長を続けている。