業界人の人生劇場:信田商事・信田幸和代表(上)
父は横浜新道に面したドライブインレストランをやっていたんです。そこで、私は中学に入ったころから、テークアウト用のカツサンド売りを手伝っていました。結構ボリュームのあるサンドイッチで、評判は上々でした。
高校に進学してバイクが欲しくて、父に相談すると「自分で稼いだ金で買え」と、にべもない返事。それではと、本当は高校生のバイトは禁止だった店で、高校生じゃないことにして、バイトに精を出しました。学校が終わると、制服を着替えてね。
高校卒業後今度は車が欲しくなった。ジウジアローがデザインした「いすゞ117クーペ」が欲しくて欲しくて。もう、父親に頼み込んでもムダ、だと分かり切っていましたから、バイトで一〇〇万円ためましたよ。即金で念願の「117クーペ」を手にしました。
万事、こういう感じの父でしたから、必要な金は自分で用立てするものだと体で分かっていた。ですから、金銭的自立は早かったと思いますよ。
歯医者がとった患者の歯型などから、入れ歯や差し歯を作る仕事ですよ。なぜ、歯科技工士専門学校なのかって? 儲かる仕事だと聞いてたからですよ。二年間通いました。カリフォルニアで歯科技工士を開業している学校の先輩がいまして、時々遊びに行ったりしてました。私も、いずれ、アメリカで歯科技工士としてやっていきたかったんです。
学校を出て、日本の歯科技工士の職場に一年半程勤務してから、ニューヨークへ渡りました。二一歳後半から二三歳まで、向こうの職場で勤めて、行く末は、グリーンカードを取得して永住するつもりでいたんです。
けれども、当時、グリーンカード取得は難しくなってきていました。開業のめどが全く立たない。仕方なく、帰国しまして、絵画の販売などをしました。絵画の販売は儲かりました。
当時、絵画は絶好の投資対象でしたから。けれども、収入のアップダウンが実に激しい。何百万円も収入のある月がある一方で、全く収入ゼロの月もある。
二四歳の時子供が産まれ、堅実に食べていかなければと考えまして。外食の環境の中で育った血は、争えないのでしょうかね。外食の世界に身を投じようとして父に相談しました。
父は「客単価の高いものをやれ」と言う。そこで、焼き肉屋かすし屋のどちらかだということになりまして、結局、父の知り合いが経営、かなり繁盛していた焼き肉屋へ見習いとして三ヵ月間、雇ってもらい勉強しました。
独立。父はあくまで厳しかった。店舗は母親がやっていた五・五坪ほどの喫茶店を、一五〇〇万円でリニューアル。これが、昭和60年8月にオープンした「とんちゃん亭」一号店、現在の本店です。
開業資金一五〇〇万円、どうしたと思いますか? 父から“年利一割”で借りたんですよ。父いわく、「担保がないだろう」。最初は五年間で返済しようとの計画でしたが、一年半で、きっちりと返済しました。
月商は最初二四〇万円でしたが、次第に常連の方がつきはじめ、12月には六〇〇万円にまで引き上げることができました。カウンター一三席のみの店舗が、かえって良かったんですかね、お客さんとコミュニケーションをとるには。
あるときなんか「お前の店のキムチはまずい」って言われまして。そのお客さんが教えてくれたキムチがうまいと評判の店へ買いに行って、店を閉めた後、妻と二人で食べてみて、「これは、何が使われているのか」などと研究したこともありました。
努力のかいあってうちのキムチは、今では評判ですよ。今も、各店舗で漬けています。
二号店出店の失敗などもありました。二号店は、立地を十分考えずに店を出したことで、つまずきました。居酒屋だった店を買い取ったんです。今度は、リニューアル費用一七〇〇万円、開業資金一三〇〇万円、合計三〇〇〇万円を、一号店を担保に銀行から借りました。
オープンは昭和61年11月。四〇坪、二階席も含めて六〇席の店舗だったのですが、月商三八〇万円台を行ったり来りと、低迷を続けていまして、平成元年にクローズしました。
こんな失敗でも、いい勉強になりましたよ。三店舗目はしっかりと綿密な調査のうえ出店、スムーズに月商六〇〇~七〇〇万円は稼ぎ出す店になってます。現在の稼ぎ頭は新川通り店です。
とんちゃん亭はお陰さまで、現在五店舗を展開、年商四億円にまで成長しました。今後は、焼き肉屋の仲間で立ち上げた(株)ヤクニック経営の「大福」を、今後どのように展開していくか。いろいろと、思い描いているところです。楽しいですね、とんちゃん亭の枠を超えた店づくりにあれこれと思いをはせるのは。(洛遥)
◆プロフィル
(株)信田商事代表取締役信田幸和氏。「自分の欲しい物は、自分で稼いで買え」と言う厳格な父親のもとで、高校生のころから経済的独立心を養われる。当初、アメリカで歯科技工士として独立する夢を抱き、アメリカで歯科技工士を営んでいた技工士学校の先輩を頼り渡米。永住を望んでいた信田氏だが、グリーンカード取得が困難な状況に直面。日本へ帰国後、外食業界へ。焼き肉屋「とんちゃん亭」を年商四億円のグループへ育て上げる。さらに、全国の同業者と組んで全国的な焼き肉屋チェーン「大福」を立ちあげる。「大福の将来が楽しみ」と、夢をふくらませる。横浜市出身、三七歳。
◆企業メモ
(株)信田商事。母親が経営していた横浜市鶴見区中央の五・五坪の喫茶店を改装し、「とんちゃん亭」一号店として出店。現在、本店(一号店)、支店(横浜市鶴見区中央)、潮田店(横浜市鶴見区潮田町)、川崎店(川崎市川崎区砂子)、新川通り店(川崎市川崎区東田町)の五店舗で年商四億円を稼ぎ出すまでに成長させた。
(株)ヤクニック。FR業態を取り入れた新しい業態の焼き肉屋の全国チェーン「大福」展開を目指し「とんちゃん亭」と「むさし」(千葉県)、「ごんたか」(埼玉県)、「じゅうじゅう亭」(山口県)の四社とオージーエムコンサルティングの五社共同出資により、九六年3月に資本金四八〇〇万円で設立。現在、四国に三店舗を展開。落ち着いて楽しめる焼き肉店の、FCによる展開を目指す。











