シェフと60分 割烹「小田島」店主 小田島稔氏
今では切っても切り離せない看板の和食とワインとの出会いは、道場六三郎氏がオーナーシェフであった「新とんぼ」で働いていた頃、パリの日本料理店への誘いがあり、フランスに旅立ってからのことである。
東京オリンピックの前々年、一八歳で日本料理への道を歩み始めるが、折りからのホテル建設ラッシュで洋食への人気は高まる一方。そうしたなか持ち前の反骨精神から和食へと進んだ。
大森、築地、箱根などでの厳しい修行を積み重ね、「朝4時から夜の12時まで盆暮れなしの生活でした。人より早く起き、人より多く働き、経営者からは、それ以上やらないでくれと言われたくらい」と述懐する。
徒弟制度の厳しい日本から、労働条件も雲泥の差のパリで、自由奔放な調理人生活を三年間過ごしたところで、実家の商売替えした和食の店の技術指導を乞われ、一時帰国する。
「板前と違い、フランスで使っていたワインを始め、ムール貝、ステーキなどを自由にメニューへ乗せた」のが功を奏し評判となり、ついに帰国となった。
フランス産であろうが、自らがおいしいと思った食材は、「使わない手はない」として、積極的に取り入れる姿勢を崩さない。
山形県鶴岡市の人達と懇意になり、無農薬野菜を週二回位送ってもらっている。種類は、チンゲン菜、赤カブ、聖護院大根などと目新しいものはないが、「とてもおいしいと思うし、うまいと思うものは、営業する力があります」という。
また、市場へ行けば、好みの食材が手に入るが、「隅のほうでハタが私を食べて下さいと言わんばかりに待ち構えている」のを見ると、食材が踊って見えるという。
「食材と仲良くする術を身につけました。自分自身がよだれを流して製品にするのです。煮る、焼く、蒸す、そして叩くか切るかです」
食材との出合いから生まれた旨さから、客の口に入るまでを一つの流れとして捉え、この流れを伝えたいとして、一品料理はなく、すべておまかせのコース仕立てを取っている。
その日その日で決まる豊富なメニューだが、「アイデアの源は旅です。自分の足で歩き、自らをその場に持っていくのです」。
店を一週間休めば何百万円の損失になるが、これは数字として表されるモノであって、「旅は、計り知れないボリュームとパワーを与えてくれます」と言い切る。
人生のメリハリが自己を向上させるとする持論だけに、過去の節目には、生涯の伴侶である山との対峙を交えての旅立ちがあった。
若い頃には、パリの日本料理店「たから」を介して知り得たピエール・カルダン、小沢征爾、岸恵子、高田賢三などの面々と、自分との生活にギャップが感じられなかったのは、料理という世界を持っていたからだろう。
「嫉妬心、虚栄心をうまくコントロールさせ、それをエネルギーに変えるのです。コンプレックスに終わらせず、料理で対決したいとふるい立たせるのです」
五〇歳まであと五年、体力的にも山は最後になるのではという焦燥感から、意を決し信州松本へ移る。
一週間のうち三日間働き、あとは東京の自宅往復、そして登山三昧の暮しであった。
松本「有栖川」には、佐伯さん、上高地の清水屋さんなど多くの人が出入りし、今でも毎月一回「和食とワイン」の講習会を信州上田や白馬で開くほどに深い付合いとなる。
「この時代、信州は味の分水嶺と知りました」というほどに、大町へ出掛ければ日本海のブリ、越前ガニ、ボタンエビ等々、そして甲府の石和では太平洋側のタイなどが手に入ったという。
人の縁、食材の縁を大事にする人である。
「思ったことは必ずやってみるべきです。良い生き方は、失敗を恐れない、やってみて駄目だったら、そこでまたどうやるか考えれば良い。有言不実行は一番嫌いです」と、バイタリティーある行動の柱となる人生観を一言。
子供に対しても「私自身が子供であるなら、父親が好きに生きている後姿を見るほうが好き。我慢しながら働いている親の姿は、私自身から見れば美しくない」と独特の人生への美意識を発信させている。
「ニンジン、ダイコン、カブ、芋をすべて同じダシで煮ても、それぞれ全部味が違います。これを日本料理の世界では誰も気付いていません」と一石を投じる。
「平等な条件を与えてやれば、それぞれが自己主張し個性を出すのです」
関西では、一つ一つ下味で味付けし持ち味を殺している。また、フランス料理も然りという。こだわるあまりに、おいしいものがおいしくなくなっているともいう。
「単純なものほど複雑な味を出します。これは地方料理で教えられました」。まさに煮込み革命である。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
昭和19年、東京芝新堀町に生まれる。家具屋の七人兄弟の末っ子で、家族、職人総勢一六人分の食事を小さい時から手助い、男子厨房に入らずの観念は全然なかった。高校時代も山岳部に所属し、合宿でも率先して炊事に回ったほど。
三Kなど考えられないと言い切るほど苦手なもの、嫌いなものに果敢に挑戦し、好きなものに変えていく前向きタイプ。昔の苦しい修行時代を乗り越えるには、好きになるしかなかったとも言う。
日常生活のメリハリがあれば、自然に技術はついて来るとして、“継続性”を大事にしながらも、人がやらないこと、人が羨やむことをどんどんやってのける。
六〇歳になったら、西向侍(にしむくさむらい)で、二、四、六、九と一年に半分働けば良いようにする布石として、大好きな山を基軸に、国内、国外へと精力的に出稼ぎをしている。