シェフと60分 レストラン「ベルフランス」石井義昭料理長

1995.03.20 72号 7面

東京地方のフランス料理、北海道地方のフランス料理と、その地方の食材を使ったフランス料理があって良いという。

東京ではやっているものが、同じ食材で、同じ時期に北海道ではやるのはおかしいともいう。

「料理人対料理人では良いが、お客に認知されたことではないのです」。季節の野菜、旬の素材を大切にしているだけに、言い切れることだ。

「料理人とは、ものの素材に手をかけ商品にして売るものと思っているところがある」が、ただただ手をかけたモノに商品価値があるのだろうか。

「新しい素材を見つけて来た時、それが商品となるのです」。あまりにも手をかけるのではなく、本当の味、素の味を知ってもらうのに注力せよという。

その土地の季節の味、旬の味を出したいとして、東京近郊農家からニンジン、ブロッコリーなどを仕入れる。

「業者は、ブロッコリーを刈り取った後廃棄してしまうが、私は農家に頼み、残った茎から出る小さな芽を買わせてもらい二年になります」。ミニブロッコリーは、皿に盛られ、冬の終わりと春の訪れを客に知らせる。

一般消費者も使う身近な食材を使いながら、越えられない距離を感じさせるのが、プロの切れ技だ。

フランス料理は、伝統を継承する一つの食文化だ。長い間、人々に支持され、受け継がれてきたのが伝統。その伝統も昔のままを維持しても、その時代に合わなければ、自然に消滅してしまう。

「フランス料理には、エスコフィエなどの古いレシピがあるが、それを継承していくだけが料理人ではない」。あくまでも、お客が何を感じているのか探索し、そこから汲み上げたものが、新しい伝統の芽生えとなる。

「料理人が良いと思い作っているものは、正しいと思う」。今の時代のモノ、少し前の時代のモノ、一〇〇年前の時代のモノとさまざまだろうが、伝統を維持していく効果はあるとする。

伝統あるフランス料理でも一色では、飽きてしまう。

「五~一〇年のスタンスであっても、信じて進む道が正しい」と思う方向で料理を出していけば、いろいろなジャンルが増え、「フランス料理業界も幅広く、厚味を増す」。自らを異端児と認めながら、業界活性化に一言。

お客にも、「今日は昔風料理の店、次は旬の野菜が豊富なあの店」と選択肢を広げることができる。

「若い料理人にテクニックを教え継承していくのが料理人ではない。料理人は人をつくれ」ともいう。

正しいものの考え方、真実がどこにあるかを受け継がせ若い人をつくれば、「その時代の良いものができる」。

今の時代に売られているものが真実かどうか、どうして作られ売られるのかを見極めることを強調する。

「最終的に作り手は、料理人だが、その前にいろいろな肉付けが必要」として、料理業界だけでなく、他業界の多くの人と接することを勧める。接することで、自分の業界が見えてくるという。

また、仕事を終え、飲んで寝て朝仕事をするだけでは駄目。毎日、体調を整え、時間がある時は、農家や海辺に行き、本当のものを知る努力が必要と説く。

自らもフランスでは、森の中に入り、枯葉のざわめき、鳥の声、雲の動きを感じながら、キッチンの中では得られない「大きな自然」を得たという。

規格外の小さなナシ、間引きしたニンジン、露地栽培のミツバをはじめ、最近では忘れられていた健康野菜ヤーコン、種子島の紫イモなど、一つひとつを農家から取り寄せ、メニュー化し、消費者に提供している。今はきれいで、形が良く、おいしそうな色の野菜がもてはやされる中、規格外の野菜は、市場から疎外される。「形は小さくても、ちゃんとニンジンの味がするんです」と目を輝かす。

ヤーコンは、千葉、武蔵野で作られていて糖尿病に良いとされる根菜。地下茎のため栽培には広い面積を必要とし、効率が悪いため作り手が絶えていた。

「ヤーコンの本当の味を知って欲しいと、素の味で出したら大好評」だった。季節になると客からの注文もある。

「われわれが、こうした野菜を商品としてプレゼンテーションし、食べてもらい認知される。スーパーの棚にも並べられ、家庭へと浸透する」。一つの食文化だ。

こうした農家への働きかけが続けば、「今までのように作り易いものだけでなく、本当のものを作るようになります。われわれが、長いスタンスで本当の商品を少しずつ見つけ、拡大していけば、お客も理解し、国内の食材も、もっと活性化する」。

この業界が好きだから、今何をやれば良いのか、長いスタンスで考えたいという。

「皿に出ない部分の料理をこのままやれば、農家の人から逆に提案が出るだろう」

自らは、作り手とならず、あくまで農家と、お客であり消費者でもある人々との仲介をするプレゼンターに徹したいという。

文   上田喜子

カメラ 岡安秀一

一九五三年、長野県生まれ。軽井沢プリンスホテル、東京のビストロエトランジェ、レストランピアジェ、ぶどうの木(菓子)で修業後、八七年渡仏。オーベルガード、メゾンドゥブリクール、オーベルジュレリータンなどで働き、九一年帰国、翌年から銀座ベルフランスの料理長となる。

渡仏前の日本でのレストランで、これがフランス料理だと教わったものが、ブルターニュの「ブリクール」でのオリビエ・ローランジェ氏との出会いで大きく変えられたという。

時間をつくって野山に入り、自然と親しみながらその土地、その季節にあるものを食材として使う、厳として貫く氏の料理人気質に感銘。帰国後は、自身も、親しくなった農家へ出向き、露地ものホウレンソウ、ブロッコリー、ハーブなどをもらいに行き、「自分に野菜を戴けることに感謝している」日々である。

月一回の休みと忙がしい中、週二日は必ず立寄る野菜畑での、素材の出会いを楽しみにしている。

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