外食史に残したいロングセラー探訪(28)吉野家「牛丼」

2009.04.06 355号 10面
吉野家の味を家庭でも楽しめる冷凍商品「牛丼の具」も人気で、生協では常に売れ筋商品の上位らしい

吉野家の味を家庭でも楽しめる冷凍商品「牛丼の具」も人気で、生協では常に売れ筋商品の上位らしい

 明治時代に創業した日本のファストフードの代表格であり、多くのファンを持つ「吉野家の牛丼」。日本に外食産業という言葉が生まれた1970年代以降、倒産と再建、並盛り280円という大幅な値下げ、BSE禍による牛丼の一時販売停止など、さまざまな試練を乗り越えてきた吉野家の牛丼には、どのような「味の歴史」があるのだろうか。

 1899年、日本橋にあった魚河岸で、そこで働く人たちを相手に、松田栄吉氏の出店した牛丼スタンドが「吉野家」の始まりだ。当時は政府が牛肉食を推奨し、牛鍋が流行していたころ。牛鍋の残り汁をご飯にかけたものが、牛丼のルーツの1つといわれており、吉野家の牛丼にも、糸コンニャクや長ネギ、豆腐などが入っていたらしい。

 そして関東大震災後に店は築地に移転。第2次世界大戦後に松田瑞穂氏が後継し、1958年12月に(株)吉野家を設立。瑞穂氏は年商1億円を目標に掲げた。

 わずか8坪15席、当時の日商約5万円、客数200~300人の店を年商1億円にするためには、回転率を上げて客数を増やす工夫が重ねられ、徹底的にムダが省かれていった。

 まず、メニューを牛丼だけに絞り込み、牛丼自体も「牛丼を食べにくるのは、牛肉を食べたいから」と具を牛肉と玉ネギだけに。さらにはカウンター中心の店づくり、オペレーションの確立など、現在の吉野家の原型は、このころに作られたといえる。そして、1965年に年商1億円を達成する。

 1970年代には年商3億円を目標に、多店舗化を開始。しかしチェーン理論に基づき合理化を進める過程で、たれの粉末化や台湾産フリーズドライ肉を導入した結果、明らかに味が落ち、客数が激減。それを補うための値上げで、さらにお客が離れるというマイナスのスパイラルに陥り、1980年7月に会社更生法を申請。だが、管財人となった増岡章三氏らのアドバイスで原点回帰を行うと、「元の吉野家の牛丼」にお客はすぐに戻った。

 以来、基本的な味付けは、ほとんど変わらないが、「また食べたくなる」味と量を常に追求し続け、時代に合わせた微調整を行っている。

 社長室広報担当、木津治彦氏によると、牛丼のたれのレシピを知る者は、社内でもほんの数人だけ。しかし、レシピよりも大切なのは、決められた手順をしっかり守り、肉と玉ネギを大量に煮込み牛丼を作ることと、温度管理を徹底することという。

 「新店オープンの前にはトレーニングも兼ねて何度も食材を煮て、味作りを行います。オープンまで時間がない場合には、近隣の店からたれを分けてもらうことも。この工程がないと、吉野家の牛丼の味にはなりません」(木津氏)

 また、一定の食数を作るごとに、目の細かい布でたれをこすなど、たれのメンテナンスも欠かせない。

 合理化を追求するだけではなく、それに反しても大事にしなければならない味やサービスを守る姿勢も、吉野家の牛丼が愛され続ける理由なのだろう。

 *参考文献「吉野家」(茂木信太郎著)

 ◇牛肉とコメ

 吉野家では70年代、多店舗化に伴って、牛肉の安定的な仕入れが不可欠となり、他の牛肉商社関係者が関心を示さなかったショートプレート(ばら肉)に着目し、輸入を開始。2003年末からのBSE騒動時には、牛丼の一時販売停止を行ってでもアメリカ産牛肉にこだわったことは周知の通り。ちなみにアメリカでは、ショートプレートの日本向け輸出カットは、すべて吉野家規格に合わせている。

 現在、牛丼に使われているコメは、北海道産「きらら397」を中心としたブレンド米。「きらら397」は、粒が大きく、炊飯時の高温でも型くずれせず炊き増えがすること、そしてたれの通り(染み具合)がよいという特徴が、丼物に適している。1995年に吉野家での導入後、他の外食企業でも多く使われるようになった。

 ●店舗データ

 「吉野家」/経営=(株)吉野家/本社所在地=東京都新宿区新宿4-3-17 ダヴィンチ新宿ビル2階/創業=1899年/店舗数=1458店舗(国内1098店舗、海外360店舗。2009年1月末現在)

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